どうも、りきぞうです。
きょうは、こちらのニュースをうけて、「ワーケーション」から休息について、考えてみました。
※ 本文の引用は、最下部の文献によります。
…
すこしまえから、「ワーケーション」という言葉が普及している。
みたとおり、ワークとバケーションを合わせた造語。
仕事と休暇を、1つの施設で完結させましょう ─ 宿泊業界のサービス活性化のために、つくられた。
わたしは「ワーケーション」という言葉に、ちょっとギモンがある。
じつのところ、ほんらい「バケーション(休暇)」に、お金をかける必要はない。
わざわざ旅に出て、宿泊せずとも、カラダを休ませることはできる。
ニュースにあるような、豪華なホテルを使わなくても、いま住んでいる家で、じゅうぶん休息はとれる。
きみが自分だけの生活に戻ったら、すべてがずっと小さな規模になるだろうが、すべてが満足できるほどあふれているだろう(p.73)
─ セネカ『倫理書簡集』19
むしろ、「宿泊費はいくらだ?」とか、「夕食はおいしいのか?」などなど、さまざまな予定を組んだり、意思決定をするほうが、よけいに疲れる。
じっくり休みたいなら、家でまったりし、部屋を掃除をするなり、お風呂につかって、マンガなんかを読んでいたほうがいい。
こちらのほうが、よほど英気を養える。
では、なぜわたしたちは、「休暇にはお金をかけるべき」と思っているのだろう?
なぜ、〝苦労〟してまで〝休もう〟としているのか?
それは、わたしたちが、
から。
「休暇」と称して、そのなかに「遊び」「レジャー」を混ぜてしまっているから。
そのために、カラダを休めるはすが、カラダをヘトヘトにさせている。
(あたりまえだが、遊び・レジャーは、プランを立てるにも、プランを実行するにも、めちゃくちゃ疲れる)
わたしたちは、知らず知らずのうちに、休暇と余暇を、いっしょに考えてしまい、結果、「休息にもお金をかけるべき」と思いこんでしまっているのだ。
わたし自身、その背景には、
と、ニラんでいる。
「ワーケーション」なる用語の普及も、その一貫だろう。
◯
もうすこし、掘り下げて考えてみる。
仕事で稼いだお金には、大きく分けて、以下のような使い道がある。
・維持費
・レジャー費
投資は、スキルアップ or 資産形成など、のちのちの仕事・生活を豊かにする費用。
維持費は、いまの仕事・生活を継続させるための費用。
そして、レジャー費とは、いまこのときを楽しむための費用。
わかるとおり、休暇・休息にかけるお金は、「レジャー費」ではなく「維持費」にふくまれる。
休暇とは、仕事を続けるためにあり、カラダを正常に保つのが、ほんらいの目的。
そこでかかるお金も、(仕事・生活の)「維持費」に計上されるはず。
にもかかわらず、休息にかかる費用を「レジャー代」として支払っている。
そう、わたしたちが「休暇にお金をかけるのがあたりまえ」と思っているとき、
なぜかわからないが、休息にあてるお金が〝水増し〟され、「遊ぶためのお金」へと〝くら替え〟させられている。
◯
くりかえし言うが、ほんらい、休暇・休息にお金はかからない。
ほんのすこしの費用で、体調はもとにもどり、健康でいられる。
安上がりな食べ物は、食欲を自然な限度に保つ(p.136)
─ プルタルコス『健康のしるべ』7
わたし自身、ふだんの生活リズムが、すこしでも崩れれば、それだけで疲れてしまう。
まして「ワーケーション」のように、温泉付きのホテルに泊まり、仕事のかたわら、カラダを休めるという発想が、ショージキなところ、信じられない。
どんなに快適なホテルに泊まったところで、シンから休まった経験など、一度もない。
ゆったりしたいなら、部屋を掃除したあと、読書をしながらコーヒーでも飲む。
見知らぬホテルに泊まり、「ここの温泉は肌に良い」とか、「メインのステーキは、いまひとつだった」とか、パートナーや仲間と論評しあったりして、アタマもカラダも疲れさせない。
休むというのは、なにもしないことであり、なにもしないなら、お金も労力も、かからないのではないか?
◯
もちろんわたしは、レジャーを否定しているわけではない。
休んでいるのか、遊んでいるのか、よく分からないふるまいは、避けたほうが良いのでは、と言っている。
ゆったりしているのか、はしゃいでいるのか、きもちを右へ左へ、いたずらに揺さぶるのは、やめたほうがいいのでは、とのべている。
「遊ぶなら遊ぶ」「楽しむなら楽しむ」とはっきり決めて、資金も労力もそそぐ。
そのほうが、お金もこころも、喜ぶのではないだろうか?
…
では、お元気で。



