孫文と辛亥革命 ─ 影響・結果・指導者・三民主義・袁世凱・蒋介石【わかりやすく解説】

どうも、りきぞうです。

大学のころから、世界史に親しんできました。

大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。

・孫文と辛亥革命について知りたい
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?

きょうは、この問いに答えていきます。

答えは、つぎのとおり。

キーワード
・憲法大綱
・華僑
・興中会
・中国同盟会
・三民主義
・中華民国
・国民党
・軍閥
重要人物
・孫文
・武昌
・袁世凱
ポイント
・孫文は三民主義のもと革命団体をまとめあげ、中国同盟会を結成した
・辛亥革命により中国伝統の専制政治は終焉をむかえるものの、その後は各地の軍閥台頭し混戦状態におちいった

この記事では、つぎの本を参考にしました。

孫文と辛亥革命① ─ 三民主義

孫文

義和団事件で欧米列強に屈した清朝は、これまでの体制を改め、ふたたび近代化政策をすすめていくことになります。

これを「光緒新政」とよび、日本をモデルにした国民国家の建設をめざします。

具体的には、つぎの3つが実施されました。

・科挙の廃止
・憲法大綱の発布
・国会開設の公約

科挙の廃止にかんしては、伝統的な思想をぬぐいさり、近代的な教育制度を導入していきます。

憲法大綱については日本の明治憲法モデルにして、皇帝大権(権限)を法律として明記します。これにより皇帝は、軍事や財政にかんする命令を好き勝手に発動できなくなりました。

国会開設にかんしては、10年以内に議会開設を約束します。ただしその後、王朝政府はあの手この手で延命策をこうじ、それが民衆の反発をまねくことになります。

包丁政府内で近代化政策がすすむなか、民衆のあいだからは革命運動がもりあがります。背景には変法運動の失敗と、義和団事件による清朝政府の権威低下がありました。

華僑や留学生が運動の支持基盤となり、漢民族による清朝を打倒がかかげられます。その運動から登場したのが革命家の孫文でした。

ハワイに滞在していた彼は、華僑を中心とした秘密結社興中会を結成し、広州で武装蜂起を決行します。

武力で劣る興中会はすぐさま鎮圧されてしまいます。革命反乱は失敗に終わるものの、このできごとがきっかけとなり、革命運動はよりいっそう発展し、中国各地で革命グループがつぎつぎ結成されていきます。

孫文自身は日本(東京)に拠点をうつし、新たに中国同盟会をたちあげます。そのさい打ち出されたのが三民主義でした。

三民主義とは、

・民族主義(=民族の独立)
・民権主義(=民権の伸張)
・民生主義(=民生の安定)

の3つをさします。

それぞれの理念は、つぎのことを目指します。

・民族主義 → 清朝打倒&漢民族国家の再建
・民権主義 → 共和国の樹立&民主主義の実現
・民生主義 → 土地分配&経済格差の改善

孫文と辛亥革命② ─ 国民党 vs 袁世凱政権

袁世凱

革命運動がもりあがるなか、ついに清王朝を滅亡させる辛亥革命がおこります。

以下、[背景 → 展開 → 影響]の流れに沿って、みていきましょう。

背景

きっかけは、漢民族の資本家や華僑たちによる利権回収運動のすすんだことでした。これにより、それまで奪われていた経済利権を、かれらは欧米列強から取りもどすことに成功します。

しかし清朝政府は、資本家や華僑の気持ちをさかなでするかのように、買い戻した幹線鉄道を国有化したうえで、外国の借款をつかって鉄道建設をおこなう、と言いだします。

これには資本家や華僑の富裕層はもちろん、一般民衆も反発し、四川暴動にまで発展します。清王朝はすぐさま政府軍の武昌をたてて「新軍」とよばれた陸軍部隊をおくりこみます。

しかし武昌がひきいる兵士の一部は、つねづね王朝政府に不満をもち、革命に傾倒していました。ここでついにかれら一派が革命派として蜂起し、反旗をひるがえします。

第一次辛亥革命の勃発です。

展開

新軍による革命反乱をきっかけに、全国14省が独立を宣言します。その過程で孫文を臨時総統とする中華民国が建国されます。首都は南京におかれました。

窮地に追い込まれた清朝は、独自の軍隊をもつ袁世凱を起用して、なんとか鎮圧をはかろうとします。

しかし王朝政府と一定の距離をとっていた袁世凱は、孫文ひきいる中華民国と取り引きをおこないます。それは「皇帝の退位」「共和政の維持」を条件に、彼自身を中華民国の総統に就任させる、というものでした。

軍事力では負ける中華民国サイドは、袁世凱の提案を受け入れるしかありませんでした。

これにより清王朝は滅亡し、ときの皇帝宣統帝(溥儀)も退位させられます。ここに2千年以上つづいた中華皇帝による専制政治は終焉をむかえ、中国では初めて共和政国家が成立することになります。

影響

しかし共和政がしかれても、国内の統治は安定しませんでした。

袁世凱に不満をもつ革命派は宋教仁を中心に国民党を結成し、反抗の態度をしめします。

武力ではなく議論での戦いにもちこみたい国民党は、当初の約束どおり総選挙をおこない、袁世凱ひきいる政党を大差をつけてやぶります。

しかし軍部を掌握している袁世凱は、国会そのものを弾圧し、革命派を政治の舞台から追いはらいます。

このふるまいに憤りをおぼえた孫文は、当初の約束をひるがえしたとして、ふたたび袁世凱政権にたいして革命をおこします(第二次辛亥革命)。

とはいえ軍事力が十分ではない孫文一派は、袁世凱の部隊に鎮圧され、クーデターは失敗におわります。

その後、命をねらわれた孫文は日本に亡命し、秘密結社中華革命党をしたうえで、革命の機会をうかがうことになります。

いっぽう革命派を駆逐した袁世凱は、正式な手続きを取らないまま大総統に就任し、民主政を廃止したうえで、帝政の復活をはかります。

しかしこの帝政もまた中国国内の混乱をおさめることはできませんでした。

革命派がいなくなったとはいえ、政権簒奪者の袁世凱への民衆の目はきびしく、そこに欧米列強の各国が「帝政反対」を口実に、中国国内に介入しはじめます。

皇帝を目指した袁世凱ですが、その野望はかなわず、病死によってこの世を去ります。

これ以降の中国は、列強諸国の支援を受けた軍閥が台頭し、混戦状態へとおちいっていきます。

おわりに

孫文と辛亥革命をみてきました。

まとめると、こんなかんじです。

キーワード
・憲法大綱
・華僑
・興中会
・中国同盟会
・三民主義
・中華民国
・国民党
・軍閥
重要人物
・孫文
・武昌
・袁世凱
ポイント
・孫文は三民主義のもと革命団体をまとめあげ、中国同盟会を結成した
・辛亥革命により中国伝統の専制政治は終焉をむかえるものの、その後は各地の軍閥台頭し混戦状態におちいった

この記事が、孫文と辛亥革命を理解するさいのヒントになれば、うれしいです。

では、また。