【図解】ショーペンハウアーの思想&名言 ─ 「盲目的な意志」

どうも、りきぞうです。

大学のころから、哲学に親しんできました。

大学院時代は、本格的に人文書・哲学書にあたってきました。

ショーペンハウアーの哲学にも、ふれてきました。

同じように、知りたいなぁと思っている人もいるかと。

とはいえ、

ショーペンハウアーはどんな人?
ショーペンハウアー思想のポイントは?
かれの残した名言は?

─ こんな悩み&疑問をいだく人も多いはず。

そこで、この記事では、ショーペンハウアーの考えをみていきたいと思います。

先に結論をいうと、つぎのとおり。

りきぞう

ショーペンハウアーは、近代ヨーロッパの哲学者
「盲目的な意志」をキーワードに、独自の思想を展開した
「人間はひとたび生まれれば、あとは永久に〝かれ〟であり、自分が何であるかは、あとから追い追い認識していくのみである」などの名言を残している

以下、目次にそって、[著者 → ポイント → 名言]の順でみていきます。

ちなみに、参考にしたショーペンハウアーの本は、こちら。

引用ページも、本書によります。

著者

ショーペンハウアーは、ドイツ人で、1788年〜1860年に生きた人です。

主著は『意志と表象としての世界』。

けれど、さっぱり売れませんでした。

そこで晩年、この本を注釈するかたちで、『余録と補遺』を出版します。

皮肉なことに、こちらがベストセラーになりました。

論文ではなく、エッセイ形式したのが、よかったみたいです。

じつは、日本でよく読まれる『読書について』『幸福について』などは、すべて『余録と補遺』の一部です。

いっぽう、ショーペンハウアー思想のコアが書かれている『意志と表象としての世界』は、ちゃんと目をとおしたほうが良いと思います。

文句なしにおもしろく、個人的には、全哲学書なかでも、ベスト3に入ります。

テーマは、認識と世界です。

・ショーペンハウアーの「物自体」
・インド哲学の意志論

を取りいれつつ、ショーペンハウワーなりに、ひとの認識と世界の成り立ちについて、述べていきます。

世界は、(ひとをふくめた)万物の意志の争いの場であり、それぞれがもたらす表象(=イメージ)のあらわれにすぎない ─ 。

このテーゼをキホンとしながら、

・プラトンの「イデア」
・カントの「物自体」
・仏教思想

を検討していく流れになっています。

ポイント ─ 「盲目的な意志」

『意志と表象としての世界』にしぼって、ショーペンハウアーの思想をみていきます。

ポイントは、「盲目的な意志」です。

カンケツにまとめると、つぎのとおり。

図解説明

世界は、自我の表象(=イメージ)である。

世界の根底には、あらゆる存在の「盲目的な生存意志」がはたらいてる。

生存意志は、絶えず満たされない状態にある。

人間もまた、この欲望を満たすように駆られている。

たとえば、「恋愛をしたい」「ごちそうを食べたい」「豪邸を建てたい」「大金がほしい」など。

その結果、争いも生まれ、人生は苦しみに変わる。

苦しみを避けるには、盲目的な生存意志を避ける以外に、方法はない。

具体的には、

・音楽・文学・絵画など「芸術」への没頭
・仏教をつうじた抑制・解脱

が有効である。

ひとこと

キリスト教の影響から、西洋哲学だと、「理性」「超越論」など、日本ではなじみのない概念が、やたら出てきます。

いっぽう、ショーペンハウアーの哲学は、仏教思想をベースにしているので、ひとつひとつの表現が、しっくりきます。

分量は「新書版3冊分」と、わりと多め。

けれど、文体がカンケツで、あっという間に、読めてしまえます。

いったんハマると、夢中になってしまいます。

その点は、注意してください(笑)

名言

つぎに、ショーペンハウアーの名言をあげていきます。

意志は認識に先行する

わたしの見解では意志こそ第一のものであり、根源的なものであって、認識はあとから意志に単につけ加わったにすぎないものであり、意志の現象に、その道具として帰属しているものが認識である。(p.290)

─ 『意志と表象として世界』Ⅱ 4章 55

ショーペンハウアー哲学のポイントは、「意志」を主軸におく点です。

そのうえで「認識」について述べていきます。

うえの言葉どおり、認識は意志の〝付属物〟にすぎません。

さいしょに、ひとの能力では、どうにもならない意志があり、認識はそのあとを追いかけるかたちになります。

デカルト以来、「意志」よりも「認識」を重視してきた西洋思想においては、画期的な考え方といえます。

人間は、意志の結果として、また、意志の性能に応じて、自分を認識するのであって、古いものの見方のように、認識する結果として、また認識に応じて、なにかを意志するというのでは、そもそもない。(p.290-291)

─ 『意志と表象として世界』Ⅱ 4章 55

なので、認識と、それにともなう表象(=世界&自己のイメージ)も、意志に〝従属している〟といえます。

もっといえば、意志が満足するまで、世界 or 自己を、認識・想像しつづけることになります。

〔……〕意志に表象の世界がつけ加わり、意志に役立つようになるまでに、表象の世界が展開することによって、意志はおのれ自身の意欲についての、また、おのれの欲するものが何であるかについての認識を獲得するのである。(p.248)

─ 『意志と表象として世界』Ⅱ 4章 54
・どんなに最高 or 最悪な世界の味方
・どんなに高い or 低い自己イメージ

をしたにせよ、どの認識も、意志の後追いであり、意志の衝動を補っているにすぎません。

「なりたい自分」があるにせよ、それは意志がもたらすものにすぎないわけです。

人間はいっさいの認識に先立って、すでに自分で自分をつくりあげている作品だということである。認識はただ出来上がった作品に照らすために、あとからつけ加わったものにすぎない。このような人になりたい、あのような人になりたい、と決心して人間になるのではなく、また別人になるということが不可能なのも、そのためである。(p.291)

─ 『意志と表象として世界』Ⅱ 4章 55

人間はひとたび生まれれば、あとは永久に〝かれ〟であり、自分が何であるかは、あとから追い追い認識していくのみである。(p.291)

─ 『意志と表象として世界』Ⅱ 4章 55

意見はさまざまですが、個人的には、かなり納得できる考えです。

意志/動機のちがい

〔……〕意志という言葉をきけば、〔……〕認識に導かれている意志、もっばら動機に従い、〔……〕理性の指導下に表現されている意志だけだと思っている人は、永遠の誤解にとらわれたままに終わることなろう。(p.245)

─ 『意志と表象として世界』Ⅱ 2章 22

意志にちかい用語に「動機」があります。

この言葉どおり、ショーペンハウアーは、意志/動機を、はっきり区別しています。

カンタンにいえば、

・動機=概念に由来する衝動
・意志=衝動そのもの

ということです。

動機は、なにかを認識して、その概念 or イメージによって、行動をうながします。

いっぽう、意志は、認識なしに(認識に先行して)、人間を含めた、あらゆる生物を動かします。

意志とは、ひとのアタマ or カラダにおさまらず、あらゆるものの奥底に内在しています。

ショーペンハウアーにとっての意志とは、万物の根源であり、だれにもコントロールできません

その意味では、カントのいう「物自体」、プラトンの「イデア」にちかいです。

後半の議論では、「意志」と「物自体」「イデア」の関わりについて検討されます。

なかなかインパクトのある思想ですが、ふだんわたしたちが感じている、世界 or 人間のイメージにちかいと思います。

また、ショーペンハウアーの文章表現は、たとえがうまく、本質をついた書き方をします。

中毒性の高い文章です。

テーマだけでなく、かれの文体も味わってみてください。

まとめ

まとめると、

りきぞう

ショーペンハウアーは、近代ヨーロッパの哲学者
「盲目的な意志」をキーワードに、独自の思想を展開した
「人間はひとたび生まれれば、あとは永久に〝かれ〟であり、自分が何であるかは、あとから追い追い認識していくのみである」などの名言を残している

ぜひ、ショーペンハウアーの思想を知るうえで、参考にしてみてください。

ではまた〜。