帝政ローマ時代 ─ 皇帝・元首政・五賢帝・パックスロマーナ・軍人皇帝・専制君主政【わかりやすく解説】

どうも、りきぞうです。

大学のころから、世界史に親しんできました。

大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。

・帝政ローマ時代について知りたい
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?

きょうは、この問いに答えていきます。

答えは、つぎのとおり。

キーワード
・称号アウグストゥトス
・プリンケプス
・元首政(プリンキパトゥス)
・五賢帝
・ローマの平和
・コロヌス
・コロナトゥス
・軍人皇帝時代
・コンスタンティノープル遷都
・ミラノ勅令
・キリスト教の国教化
重要人物
・オクタウィアヌス
・ネルファ
・トラヤヌス
・ハドリアヌス
・ピウス
・マルクス=アウレリウス
・ディオクレティアヌス
・コンスタンティヌス
・テオドジウス
ポイント
・アウグストゥスは、元老院&共和政の両方を大切にする元首政をはじめた
・アウグストゥス〜五賢帝までは「ローマの平和(パクス=ロマーナ)」とよばれるいっぽう、「3世紀の危機」よりローマは分裂状態におちいる

この記事では、つぎの本を参考にしました。

以下、目次に沿って、みていきます。

帝政ローマ時代① ─ 元首政

初代皇帝 アウグストゥス

オクタウィアヌスが、アントニウスを倒したことで、第二回三頭政治がおわります。

それにともない、オクタウィアヌスは、元老院からアウグストゥス(尊厳者)の称号をもらいます。

また本人は、プリンケプス(ローマ第一の市民)を名のり、元老院と共和政を尊重することを誓います。

統治のなかみは、すべての要職を兼任するものであり、事実上の皇帝独裁でした。このような政治体制を元首政とよび、長い目でみれば、共和政から帝政への移行、といえるものでした。

とはいえ、賢明なオクタウィアヌスは、独裁の立場にいながらも暴政にはしることはなく、戦争で廃れたローマを生涯かけて復興させました。

彼により、帝政ローマの基礎がきずかれた、といえます。

五賢帝

オクタウィアヌスの以降、ネロなどの暴君がうまれます。しかしローマそれ自体を滅ぼすには至らず、帝国はちゃくちゃくと繁栄をきずいていきます。

その間、五賢帝とよばれる名君があいついで登場します。

名前をあげれば、つぎのとおり。

・ネルファ
・トラヤヌス
・ハドリアヌス
・ピウス
・マルクス=アウレリウス=アントニウス

トラヤヌスのときには、ローマ帝国の版図は最大となります。

ハドリアヌスのときは、現在のイングランドまで兵を派遣して、蛮族侵入を防ぐための長城をきずいています。

マルクス=アウレリウスは、哲人皇帝の愛称で知られ、プラトンが理想とした哲人政治を体現した、と評価されています。

また海外にむけては交易路をひろげ、中国の後漢にまで使節を送った、とされています。

イギリスの歴史家ギボンは、アウグストゥスから五賢帝時代までを「ローマの平和」とよび、B.C.27年〜A.D.180年までは、世界史上、もっとも平和で安定した時期だった、と指摘しました。

もちろん、かなりヨーロッパ中心の見方ですが、たしかにこの間、いまのロンドン・パリ・ウィーンの土台ができているので、ヨーロッパ文明の基礎がつくられた、とはいえるかもしれません。

いっぽうでマルクス=アウレリウスが送った使節のように、季節風貿易により、インド&東南アジアからは香辛料、中国から絹を輸入するなど、海外交易もさかんになります。

このような面からみても、A.D.2世紀にかけては、ローマはもっとも繁栄をおうかした、といえます。

ローマ市民権の付与

ただし、200年代にはいると、ローマの平和にかげりがみえはじめます。

五賢帝のあと、暴君で名高いカラカラ帝があらわれます。彼の残虐ぶりはさておき、帝国統治に悪影響をあたえたのが、

帝国内の全自由人にローマ市民権を付与する

というものでした。

いっけんすると民衆にとっては良い政策にみえます。けれどこれは、帝国の税収が下がったので、その対策として、市民の数を意図的に増やし、徴収率を上げる、というものでした。

単純にいえば、民衆ひとりひとりが負担することになる増税政策です。

この時期はまだ帝国に余裕がありましたが、カラカラ帝の施策をきっかけに、ローマは衰退の道を歩んでいきます。

3世紀の危機

そして、3世紀も中ごろになると、ローマ帝国の問題が一気に噴出します。

いっぱんに3世紀の危機とよばれ、つぎのような問題がおこりました。

・都市の衰退
・ラティフンディアの衰退
・軍人皇帝の台頭
・傭兵の普及

まずこの頃になると、都市ローマをはじめ、帝国内の都市がだんだんと衰えていきます。

背景には辺境をまもるための軍事費がかさみ、その費用が税金のかたちで、都市市民にはねかえってきたからです。

結果、貨幣経済も衰退し、交易も止まります。とくに、帝国の西部地域ではひどく、異国民の侵入にくわえ、まともな商業ができなくなっていきます。

またこの頃になると、ラティフンディア(大規模農業経営)もふるわなくなります。

その要因は、征服戦争の終結により、奴隷の供給が極端に低下したことでした。

結果、農業経営者は、解放奴隷や下層市民をコロヌス(小作人)として、びしびし使い、土地に縛りつけるようになります。

このような農業経営をコロナトゥスとよび、コロヌスは、中世ヨーロッパにおける農奴へとつながっていきます。

地中海交易も衰退したことで、自給自足経済へと移行していきます。

また、各地の軍隊が、勝手に皇帝をたて、おたがいに争いをくりかえします。背景には、ローマ中枢の力が落ち、地方統治に手がまわらない状況がありました。

地方軍人が台頭し、ローマ皇帝にまで上りつめる者たちもあらわれます。しかし武力にうたっえる政治しかできないため、暗殺やクーデターにより、皇帝の座は、目まぐるしく代わります。

いっぱんに、235年〜284年の時期を軍人皇帝時代とよびます。

さらにこの頃から、ローマの混乱をみてとった異民族がぞくぞく侵入してきます。

東方からササン朝ペルシャが、北方からはゲルマン人の侵攻が始まります。

そのいっぽうで、国防の強化をはかる必要がありながら、帝国内では兵士を徴収できず、傭兵にたよることになります。

皮肉なことに、それら傭兵は、敵と同じゲルマン人でした。

いっぱんに、ゲルマン人の侵攻により、ローマ帝国は滅んだとされますが、攻められたというより、ローマ側がかれらをたよりにして、交流がおこなわれていた、というのが実態でした。

以後、傭兵をきっかけに、ゲルマン人はラテン人の世界へ進出していきます。

帝政ローマ時代② ─ 専制君主政

四帝分治制の象徴像

「3世紀の危機」をつうじて、ローマ帝国はだんだんと衰えてきます。

そんな衰退をまえにして、皇帝のなかでも、再建をはかろうとする者があらわれます。

・ディオクレティアヌス
・コンスタンティヌス

の2人です。

学術上では、専制君主政の開始とされます。

以下、ふたりの施策をみていきます。

ディオクレティアヌス帝による施策

巨大なローマ帝国を統治するの不可能と判断したディオクレティアヌスは、四帝分治制(テトラルキア)とよばれる政策をうちだします。

これは、

2名の正帝と2名の副帝をたてたあと、領土を4つに分けて統治する

というものです。

彼の頭のなかでは、ローマの全領土をおさめるほど、いまの皇帝には権威も権力もない、と分かっていました。

それなりに信頼できる仲間を、正帝&副帝におき、協力して統治する必要がある、と判断しました。

彼〔ディオスレティアヌス〕は広大な帝国を1人の皇帝が統治することの不可能を悟り、帝国を東と西に分け、それぞれを正帝と副帝の2人が統治する「四帝分治制 (テトラルキア)」をしいた。これにより、ひとまず混乱はおさまり、帝国は安定をとりもどし、政治的秩序は回復された。(p.60)

─ 『詳説 世界史研究』

そのいっぽうで、皇帝の地位を、より強固なものにするために、人びとにたいして、皇帝崇拝を強制します。

ペルシャ式の儀式をとりいれ、帝権を神聖化しました。

そこへ問題となってくるのが、当時、民衆のあいだで広がりをみせていたキリスト教です。

ご存知のとおり、キリスト教では一神教の立場をとるため、「皇帝=神」とみなすことはできません。

当然ながら、帝権の神聖化政策にも反対なので、ディオクレティアヌスは、キリスト教徒にたいして弾圧と迫害をおこないます。

そのために、キリスト教徒のあいだでは、いまでもディオクレティアヌス帝の評価は、かんばしくありません。

コンスタンティヌス帝による施策

ディオクレティアヌスの政策をひきついだのが、コンスタンティヌスでした。

彼はまず、ディオクレティアヌスと異なり、ミラノ勅令を出し、キリスト教を公認します。

ふくれあがるキリスト教徒を、これ以上おさえるのはむずかしく、余計な混乱をまねかいためでした。

さらに首都を、ローマからコンスタンティノープル(現イスタンブール)にうつし、遷都をおこないます。

皇帝の権威を高めるいっぽう、当時のコンスタンティノープルは交易の中心地で、ローマにくらべ、経済面で恵まれていたからでした。

遷都により、経済の軸は東方に移り、政治の中心も、東ローマへ移行していきます。

さらに、コロヌスの土地定着令を出し、税収の確保をはかります。しかしこれは、人びとの職業や身分を固定することにつながり、中世ヨーロッパにおける農奴制のきっかけとなります。

また彼の治世後半には、ゲルマン人の移動(375年〜)が本格的に始まり、よりいっそう周辺の防衛力が強化されます。

テオドジウス帝による施策

約30年後に、コンスタンティヌス帝をひきついだテオドジウス帝は、ついにキリスト教を国教化し、宗教を定めることで、国としての一体性を高めようとします。

そのためにキリスト教が強制させることになり、ほかの宗教は禁止され、迫害や追放の憂き目にあいました。

さらに彼が亡くなると、ローマ帝国は、はっきりと東西に分裂し、以後、ローマに都をおく西ローマ帝国、コンスタンティノープルに都をおく東ローマ帝国へと分かれていきます(395年)。

おわりに

帝政ローマ時代をみてきました。

まとめると、こんなかんじです。

キーワード
・称号アウグストゥトス
・プリンケプス
・元首政(プリンキパトゥス)
・五賢帝
・ローマの平和
・コロヌス
・コロナトゥス
・軍人皇帝時代
・コンスタンティノープル遷都
・ミラノ勅令
・キリスト教の国教化
重要人物
・オクタウィアヌス
・ネルファ
・トラヤヌス
・ハドリアヌス
・ピウス
・マルクス=アウレリウス
・ディオクレティアヌス
・コンスタンティヌス
・テオドジウス
ポイント
・アウグストゥスは、元老院&共和政の両方を大切にする元首政をはじめた
・アウグストゥス〜五賢帝までは「ローマの平和(パクス=ロマーナ)」とよばれるいっぽう、「3世紀の危機」より、ローマ帝国は分裂状態におちいる

この記事が、帝政ローマ時代を理解するさいの参考になれば、うれしいです。

では、また。