どうも、りきぞうです。
大学のころから、世界史に親しんできました。
大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。
・大事なキーワードは?
・この時代のポイントは?
きょうは、この問いに答えていきます。
答えは、つぎのとおり。
・元老院
・パトリキ/プレプス
・独裁官
・平民会
・護民官
・十二表法
・リキニウス・セクスティウス法
・ホルテンシウス法
・いっぽうで経済発展にともない、富裕層と貧困層の格差が広がり、身分差はそのまま温存された
この記事では、つぎの本を参考にしました。
以下、目次に沿って、みていきます。
目次
共和政ローマの形成

古代ローマは、ラテン人がティベル川の下流に建国したのが始まりです。
一時エトルシア人に支配されます。そのさい、アーチ技法などの建築技法をうまく学び、ローマ発展の足がかりとしました。
共和政ローマの発展

約200年ちかく、エトルシア人の統治下にあったのち、横暴な王を追放し、共和政を樹立します。
このときエトルシア人の王を追い出しのが、パトリキとよばれる貴族でした。
貴族たちは、国の最高機関である元老院を構成します。元老院メンバーの任期は終身で、文字どおり本人が亡くなるまで、その地位に就くことができます。
そのうえで、かれらメンバーがコンスルとよばれる執政官と、ディクタトルとよばれる独裁官の職を担うことになります。
コンスルは2名で、任期は1年です。いっぽう独裁官は1人で、任期は2年です。
平時には2名のコンスルが国の運営をおこない、緊急時には独裁官が選出され、問題解決にあたりました。
しかし、国の防衛を平民が担うようになると、2つの職を独占する貴族たちに、不満をいだくようになります。
かれら平民はプレブスとよばれ、重装歩兵として国境を守っていました。
こう不平不満をもつ平民たちは、参政権をめぐり、貴族たちと争うようになります。
共和政ローマにおける身分闘争

平民と貴族の争いはつづけられ、長い時間をかけて、じょじょにプレブスの立場は高まり、参政権も認められます。
地位向上のプロセスは、つぎのとおり。
・十二表法の制定(B.C.451年)
・リキニウス・セクスティウス法の制定(B.C.367年)
・ホルテンシウス法の制定(B.C.287年)
順々にみていきます。
平民会&護民官の設置(B.C.5世紀)
平民会とは、文字どおり、平民だけの民会で、この会議でかれら独自の政治方針を定めることができました。
いっぽう護民官とは、平民会の議長をさし、貴族たちの元老院やコンスルにたいして、ある決定事項にかんして拒否権を発動することができました。
十二表法の制定
十二表法とは、それまでローマの人たちが従ってきた慣習法を、明文化したものです。
文章で表すことにより、国のルールがオープンになり、貴族による法の独占を回避できるようになりました。
この十二表法こそ、ローマ最古の成文法です。
リキニウス・セクスティウス法の制定
リキニウス・セクスティウス法の制定により、2名いるコンスルのうち、その1名を平民会から選出できるようになりました。
これにより元老院メンバーに独占されていた最高行政官の職を、一部の平民が担当できるようになりました。
また、公有地の占有を500ユゲラまでに制限し、貴族たちの経済独占をおさえることに成功します。
ホルテンシウス法の制定
それまで平民会の議決は、元老院の承諾がなければ、国の方針として認められませんでした。
この法の制定により、元老院が承認がなくても、平民会が独自に、国の法律を定め、判定できるのようになります。
ホルテンシウス法がつくられたことで、事実上、貴族と平民の争いは、終結することになります。
しかし平民のなかから、新たにノビレスとよばれる新貴族があらわれ、政治の実権をにぎり始めます。
かれらは、貴族に負けず劣らずの富裕層でした。
つまり、身分闘争により、貴族と平民の立場は対等になりつつも、経済格差は人びとのあいだに温存されました。
ギリシャのアテネのように徹底した民主化はなされず、のちにみるように、共和政は帝政へと変わっていきます。
おわりに
共和政ローマ時代における身分闘争をみてきました。
まとめると、こんなかんじです。
・元老院
・パトリキ/プレプス
・独裁官
・平民会
・護民官
・十二表法
・リキニウス・セクスティウス法
・ホルテンシウス法
・いっぽうで経済発展にともない、富裕層と貧困層の格差が広がり、温存された
この記事が、共和政ローマの身分闘争を理解するヒントになれば、うれしいです。
では、また。




