どうも、りきぞうです。
大学のころから、世界史に親しんできました。
大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?
きょうは、この問いに答えていきます。
答えは、つぎのとおり。
・辮髪令
・三藩の乱
・ネルチンスク条約
・軍機処
・キャフタ条約
・新疆ウイグル
・ホンタイジ(太宗)
・呉三桂
・鄭成功
・康熙帝
・雍正帝
・乾隆帝
この記事では、つぎの本を参考にしました。
目次
清王朝の形成

明王朝の時代、中国北東部では、女真族が薬用人参や毛皮などの交易で、じょじょに勢力をのばしていました。
太祖 ヌルハチ
そんななか、太祖ヌルハチが後金(アイシン国)を建国し、都を瀋陽におきます。
さらに軍事&行政組織である八旗制をしき、内政の整備にあたります。力をつけた後金は、明軍をやぶって、遼東半島を支配します。
太宗 ホンタイジ
ヌルハチ亡きあと、太宗ホンタイジがあとをひきつぎます。彼もまた積極的に外交政策をおこない、
・モンゴル族
・漢族
から成る連盟国家を成立させます。
他国の協力のもと、内モンゴルを支配していたチャハル部を倒し、敵方の領地を統治下においたのち、国名を「清」に変えます。
これが約250年間つづく、清王朝の成り立ちです。
さらにホンタイジは、朝鮮を属国したうえで、あらためて八旗制を組みなおします。それまでの満州八旗にくわえて、
・漢軍八旗
を新たに配置します。
順治帝
ホンタイジ亡きあと、皇帝の座は、順治帝がひきつぎます。
彼の時代、中国の明王朝では、クーデターがおこり、ほぼ内乱状態でした。そんななかで明の武将である李自成が台頭し、ついには明王朝を滅ぼしてしまいます。
いっぽうで、清の領域に接する山海関を防衛していた明の地方長官呉三桂が、清王朝に投降し助けをもとめます。
要請をうけた清軍は逆賊の李自成を倒し、そのまま清王朝の都を北京に移します。
ここに清による中国支配が確立します。その証として、王朝支配下の男子は、満州の伝統スタイルである弁髪を課されることになります(弁髪令の発布)。
さらに王朝は、建国に協力者である、旧明軍の呉三桂を藩王に封じて、地方統治にあたらせます。
清王朝の発展

順治帝亡きあと、
↓
・雍正帝
↓
・乾隆帝
と、皇帝の座がひきつがれていきます。
3人とも名君として知られ、とくに康熙帝は西洋ヨーロッパにまで名声が伝わりました。
以下、各皇帝の外征&内政について、みていきます。
康熙帝
中国史上、最高の名君として知られる康熙帝ですが、就任当初はさまざまな問題をかかえていました。
なかでも、かつての協力者である呉三桂がおこした反乱は、清王朝を滅亡寸前にまで追いこみました。「三藩の乱」とよばれ、若い康熙帝はなんとか鎮圧に成功します。
さらに台湾では、海洋交易で権勢をふるった鄭氏一族が反旗をひるがえし、台湾一帯を占領します。
鄭氏一族のトップである鄭成功は、「反清復明(清王朝の打倒&明王朝の復活)」をとなえ、商業利益をねらっていたオランダ人を台湾領土から追放します。
かれらにたいしても康熙帝は一歩も引き下がることなく、問題解決にあたります。鄭氏一族に弾圧をくわえ、さいごは台湾を直轄領として支配することになります。
台湾の併合により、清王朝の中国統一は完成するにいたります。
その後、内政が安定したのちは、外交にもさかんにとりくみます。
ピュートル1世ひきいるロシアとはネルチンスク条約をむすび、アングル川&スタノヴォイ山脈を国境として定めました。
さらに外モンゴル&チベットを平定し、いまだ反抗をくりかえすジュンガル部には、遠征軍をおくります。
雍正帝
約50年以上つづいた康熙帝の治世のあと、雍正帝が皇帝の座をひきつぎます。
彼は、国内統治の安定につとめ、急拡大した清王朝の領土を、できるかぎり抑えようと努力します。
政治機関を整え、軍機処とよばれる最高行政機関を置いたうえで、中央から指示系統をシンプルかつ効率的なものにします。
さらにロシアとは、ネルチンスク条約につづきキャフタ条約をむすび、
との国境をはっきりと定めます。
乾隆帝
雍正帝ののち、むすこの乾隆帝がひきつぎます。
乾隆帝の時代、清王朝の版図は最大に達し、清国は最盛期をむかえます。
清一国ですべてをまかなえるため、たとえ諸外国から交易のはなしをもちかけられても、すげなく追いかえしたりしてきます。
ヨーロッパ商船についても、貿易する場所は広州に限定し、管理機関である公行を通さなければ、まともに取り引きをさせてもらえませんでした。
西洋ではじょじょに台頭してきた、イギリスのマッカートニー使節団が訪れても、あっさりとした対応で済ませています。
いっぽう外征もひきつづきおこなれ、反抗をくりかえしたジュンガル部&回部の征服を果たし、かれらの土地を「新疆」としたうえで、統治下におきます。
なお、いまの話題になっている「新疆ウイグル地区」の問題は、このときの支配がルーツとされます。
清王朝の統治制度

さいごに、清王朝の統治制度をみていきましょう。
清の領土は、以下3つに分類されます。
・藩部
・属国
直轄地は、
・東北地方
・台湾
をさし、名前のとおり、中央の役人が直接支配します。
藩部は、
・チベット
・晴海
・新疆
をさし、理藩院とよばれる機関をおいたうえで、間接的に統治します。
なかでもチベットは、チベット仏教団のトップであるダライ=ラマが指導者となって、清王朝も手厚く保護しました。
属国は、
・朝鮮
・ベトナム
・タイ
・ビルマ
をさし、中国伝統の冊封体制により、ゆるやかに統治します
日本については鎖国にしたものの、長崎の出島にかぎり交易をおこなっていました。
寛容政策/強権政策
また軍事&行政については、八旗制が中軸となり、合わせて漢人から成る緑営とよばれる常備軍が設置されていました。
いっぽう、一般民衆にたいしては、
・強権政策
の両面から、統治をおこなっていました。
寛容政策の具体例としては、
・満漢の併用
・大編纂事業の実施
の3つがあげられます。
大編纂事業とは、
・『古今図書集成』
・『四庫全書』
の3書を整理&編集する事業をさします。
強権政策の具体例としては、
・文字の獄
・禁書
などがあげられます。
おわりに
清王朝をみてきました。
まとめると、こんなかんじです。
・辮髪令
・三藩の乱
・ネルチンスク条約
・軍機処
・キャフタ条約
・新疆ウイグル
・ホンタイジ(太宗)
・呉三桂
・鄭成功
・康熙帝
・雍正帝
・乾隆帝
この記事が、清王朝を理解するさいのヒントになれば、うれしいです。
では、また。




