大学院では、キャリア論と社会保障を研究していました。
社会人なってからは、予備校講師 → ウェブディレクター → ライターと、いろんな職業にたずさわってきました。
働き方についても、契約社員 → 正社員 → フリーランスと、ひと通り経験してきました。
働くなかで思うのは、自分の市場価値をアップするには「教養」が大切だということ。
「発想がすごいなぁ」
と、思う人は、キホン、教養を身につけています。
なかでも、さいきんブームになっているのは「世界史」です。
ここ数年、ビジネスマンの必須知識として「世界史」が注目をあつめています。
ネット時代をむかえ、グローバル化が加速しているからです。
「できる人」と付き合うには、これまでの世界全体の流れを知っておく必要があります。
とくに、ヨーロッパ史の流れは、マストだといえるでしょう。
いまのグローバル化は、ヨーロッパからスタートしたからです。
そんなとき、つぎの本が目につきました。
ヨーロッパ文化の根っこには、古代ギリシャ&ローマの知が流れています。
この2つの歴史を知っておくと、ヨーロッパの本質を理解できます。
著者は、東大大学院教授で、古代ギリシア史の専門家です。
古代ギリシャ、とくに政治制度について、くわしくのべています。
当時の民衆のようす、民主主義の成り立ちから、衰退まで、ていねいに論じています。
世界史の教養を高めるには、もってこいの1冊です。
目次
橋場弦『民主主義の源流』の概要
まずは目次から。
こんなかんじです。
第2章 指導者の栄光と苦悩
第3章 参加と責任のシステム
第4章 迷走するアテネ
第5章 民主政の再生
第6章 たそがれ
時系列にそって、民主政の繁栄と衰退について、のべていきます。
1章〜3章で、民主政の成り立ちについて。
4章で、スパルタとの戦争以降、民主政が危機をむかえたことについて。
5章で、いったん衰えた民主政が、復活したようすを示します。
6章で、民主政が崩壊した要因について、みていきます。
アテネの視点から、古代ギリシャの歴史をおっていくかんじです。
特徴としては、民主政=デモクラシーに、スポットをあてている点ですね。
『民主主義の源流』で気になったトコ
民主政の成り立ち
都市国家・アテネで、どんなふうに「民主政」はできていったのか ─ 。
研究者のあいだでも意見はさまざまです。
本書では、 「デロス同盟」(B.C.478年)以降に、本格化したとします。
「デロス同盟」とは、ギリシャの都市国家が、ペルシャとの戦争にそなえて結んだ協定です。
そのときの盟主(リーダー国)が「アテネ」でした。
「民主政」のしくみをとっていたアテネが、ペルシャと戦争に勝つことで、「民衆による統治」が最適とされたわけです。
ペリクレスによる統治
民主政のしくみを加速させたのが、政治家・ペリクレスです。
アテネの統治をになう彼は、「公私の区別」をきびしくしました。
たとえば、「民会手当」「劇場手当」「役人手当」「市民戦士への報酬」などの支払いを、すべて公費でまかないました。
かれ個人ではなく、「公(おおやけ)」をつうじて、お金が流れるしくみをつくったわけです。
政治から「私的な関係」は排除
それにより、親子関係のような「私的な関係」が、政治から排除されるようになりました。
〔……〕ペリクレスは、国富が、個人の私的なポケットではなく、公の領域だけを経由して個々の市民の手にわたる新しい流れを確立した〔……〕これにより、とくに下層市民が、有力者の庇護を求める必要が減り、親分子分のような私的な人間関係が政治から排除されたのである(096)
公的領域 / 私的領域を、ちゃんと分けて、公平な民主政をつくりあげていきました。
当然、公平性を歪ませる「ワイロ」は〝ご法度〟で、きびしくチェックされました。
私的な金が、公の領域に影響力を及ぼすこと ─ これが「贈収賄」である。その逆に、公金が私の領域にまぎれ込むのが「公金横領」である〔……〕公職者が、この種の行為を犯していないか ─ 会計検査などによって厳しくチェックし、それらを一般市民が告発する「公職者弾劾制度」は、ペリクレス時代にいっそうの発展をとげた(096)
民衆それぞれが「公共意識」をもつ
また、民衆ひとりひとりも、アテネの担い手である意識をもっていました。
(いまの日本のように?)、国家の行き先を、政治家にまかせていたわけでありませんでした。
もし「自分のこと」しか考えていないようなら、非難されたり、バカにされたりもしました。
〔……〕一般にポリス市民にとっては、公の仕事に従事することこそ男の花道であり、そこで名を上げることは無上の名誉であったのに対し、自分の家のこと、すなわち日常的な私の領域だけに沈潜することはむしろ恥ずべきこととされた(098)
こんなふうに、ペルシャ戦争後では、政治家だけでなく、民衆のあいだでも、民主政の意識を根付いていたわけです。
民主政にたいする反省
ペルシャ戦争での勝利で、ギリシャでの地位をアップさせたアテネ ─ 。
しかし、同盟国から集めた資財を使いこんだりして、他国とのカンケーが悪くなります。
なかでも、スパルタとの仲は最悪で、戦争まで始めてしまいます。
「ペロポネソス戦争」(B.C.431年〜B.C.404年)です。
アテネは、この戦争で敗北をくりかえします。
当然、アテネの社会は乱れていき、民衆の不満もつのっていきます。
一般に、戦争での連敗によって、「民主政」が崩壊していったとされます。
たとえば、民衆をダマす政治家(=デマゴーグ)が増えて、政治の質が低下した、というリクツです。
けれど、著者は、この見解に反論します。
むしろ、民主政への反省、捉えなおしが行われたとしています。
〔……〕前403年をさかいに、アテネ民主政は多くの反省と悔悟のうえに立って、みずからのシステムを再編し、新たな決意とともにふたたび息を吹き返したのである。〔……〕優れた指導者を失えば、ときとして暴走しかねない以前の民主政のありようから、より成熟し、安定した姿へと生まれ変わった。
世界史の教科書でも、衆愚政によって、デモクラシーは崩壊したとされています。
その意見に「NO」といいます。
このあたりは、さすが歴史学者といったかんじですね。
3つの改革
具体的な改革は、つぎの3つです。
- ① 寡頭派との和解
- ② 参政権の維持
- ③ 法による統治
① によって、それまで政治家 / 民衆とのあいだにあった「境界」をなくすよう、民衆サイドが努力しました。
② によって、「一部の階層しか、選挙権をもてない」流れを廃止しました。そして、以前のように、「アテネ生まれの成年男子市民」には、だれにでも参政権をもてるよう促しました。
③ によって、法による統治を、きびしくおこなうようにしました。
戦争後には、民衆の意見(気分?)によって、コロコロ方針が変わっていました。法による統治を厳密にすることで、衆愚政に陥らないようにしました。
民主政が衰退した要因
教科書などでも、ペロポネソス戦争以降、衆愚政治によって民主政は失われたとされます。
しかし著者は、この見解に反論し、その後も、民主政の捉えなおしは、何度も行われたとします。
とはいえ、アテネでデモクラシーが崩壊したのは事実です。
では、その原因は、何でしょうか。
本書では、マケドニアによる圧力が、主な要因としています。
〔……〕民主政崩壊の直接にして最大の要因が、マケドニアの軍事的制圧による、ポリスの独立喪失であることもまた否定しがたい。市民みずからの自由意志で政治を行なう原則が否定されれば、もはや民主主義の生命が枯死したも同然だからである。
つまり、内政よりも、マケドニアによる侵略が、崩壊の理由です。
アテネだけでなく、スパルタなどの都市国家も、マケドニアの侵略によって、崩壊していきました。
民主政というより、都市国家そのものが、崩れていったわけです。
ポリス市民の理想的な生き方
本書では、成り立ちから、崩壊までをスケッチしています。
では、けっきょく、ポリス市民にとって理想的な生き方は、どのようなものだったのでしょうか。
イチバンのポイントは、公にたいして、自らの能力を貢献することです。
古代ギリシャのポリス市民は〔……〕あらゆる方面にバランスよく、しかもそこそこに能力を発揮することが、民主政を支える市民としてふさわしい生き方と考えていたのである。(266)
どんな職業であれ、ポリス市民ならば、公共において、自らのスキルを発揮するのを「良し」としたわけです。
公の場にあっては民会に参加し、裁判員を務め、役人の抽選にあたれば一年間はその任務に忙殺される。一朝事あった場合には、戦士として命をかけて戦場におもむかねばならない。戦闘で不覚を取らぬためには、体育場でふだんから身体の鍛錬を怠らないのが市民たるもののたしなみであった。(266)
もちろん、私的領域(=家)の管理ができているのが前提です。
しかしときには、それを投げうってでも、ポリスのために貢献することを求められたわけです。
おわりに
民主政=デモクラシーというとき、市民ひとりひとりには「都合がよく」、「甘い」制度のようにみえます。
しかし、発症の地である古代アテネをみるとき、思いのほか、市民への要求は過酷です。
ときには、戦争に繰りださせるわけですから。
いまの民主主義との違いを知るうえでも、本書は役に立ちます。
世界史をふくめ、教養を高めるためにも、おすすめの1冊です。
よければチェックしてみてください。
ではまた〜。