マルクス・アウレリウス『自省録』感想&レビューです。

どうも、りきぞう(@rikizoamaya)です。

大学院では、キャリア論と社会保障を研究していました。

社会人なってからは、予備校講師 → ウェブディレクター → ライターと、いろんな職業にたずさわってきました。

働き方についても、契約社員 → 正社員 → フリーランスと、ひと通り経験してきました。

働くなかで思うのは、自分の市場価値をアップするには「教養」が大切だということ。

・良いアイデアを出せる
・深くものごとを考えられる

こういう人たちは、キホン、教養を身につけています。

教養とは、なにか ─ それは、歴史と古典です。

なかでも、哲学の古典は、王道といえます。

わたしも、計500冊以上、読んできました。

そのなかで、きょうは、

マルクス・アウレリウス『自省録』

を紹介していきます。

マルクス・アウレリウス『自省録』の基本

マルクス・アウレリウスの人物像

アウレリウスは、古代ローマ時代の人物。

ローマ帝国の政治家であると同時に、ローマ哲学の土台を築いた人でもあります。

かれの生涯をみることで、古代ローマ思想のキホンを理解できます。

ギリシャの都市国家が衰退したあと、ヨーロッパの覇権は、ローマ帝国に移りました。

国が繁栄すれば、文化・芸術・学問も、盛り上がります。

この時代、ギリシャ哲学を受けつぐかたちで、ローマ哲学が深化・確立していきました。

一役かったのが、アウレリウスでした。

マルクス・アウレリウスの著書

著書は、1つしか残していません。

『自省録』です。

学者・哲学者を目指していましたが、生まれ育った環境から、政治家 → 皇帝への道をあゆんでいきます。

なので、著書・作品は、いっさい書きませんでした。

本書『自省録』も、公表するために書かれたものではありません。

「自分宛ての日記」で、約12年にわたる「マルコマンニ戦争」のときに記されました。

日記にもかかわらず、善き生・人間関係にたいして深い考察をおこない、結果、哲学書として広まりました。

いまでも、学者・政治家・芸術家のあいだで読み継がれています。

たとえば、さいきんでは、『嫌われる勇気』の岸見一郎が、『100分で名著』で取り上げていましたね。

ジャンルをとわず、だれもが、感銘・勇気をもらう1冊です。

マルクス・アウレリウス『自省録』の概要

「自分宛ての日記」なので、アウレリウス自身は、「過去 or 未来の自分」にむけて書きました。

おそらく何度か読みかえしていたかもしれません。

いまのわたしたちは、理性・考察に満ちた、アウレリウスによるアドバイスを受けとるかたちで、読めばいいと思います。

かれは「ストア派哲学」に影響を受けました。なので、本書の内容も、かなり〝ストイック〟です。

・忍耐
・寛容

をキホンとし、ネガティブな感情 or 困難なできごとにたいして、〝つよく・ひろい態度でのぞめ〟と述べます。

ただし、ストイックな言動をはいていても、アウレリウスは、自身が書いたとおりの言葉・行動を達成しているわけではありません。

「こんなのできないよなぁ」と思いながら、自らにむけて書いているフシがあります。

言動 / 行動の不一致が、本書の魅力でもあったりします。

どのアドバイスも、みずからを追いこみ、きびしい内容ですが、1つでもいいから、行動の指針として取り入れるのがベターです。

おそらくすべてを実践できるほど、カンペキな人間はいないと思います。

構成

全12巻で構成されています。

目次はなく、見出しもついていません。

内容も重複している部分もあります。

なので、アタマから、順々に読んでいく必要はありません。

パラパラめくって、気になるフレーズを読んで、自分なりに考えてみる ─ 読み方としては、コレでオーケーだと思います。

マルクス・アウレリウス『自省録』で気になったトコ

というわけで、以下、気になったトコをあげてみます。

答えは「内面」にある

全巻をつうじて、アウレリウスが、くりかえしアドバイスするのが、コレです。

ネガティブな感情・不幸なできごと・達成できない困難に直面しても、答えは、あなた自身のなかにあります。

理由はカンタンで、ひとはだれしも、「善をみちびく理性」(=指導理性)をもっているからです。

どんなコトがおきても、正しく理性をつかえば、マイナスをプラスに、ネガティブをポジティブに変えられるわけです。

アウレリウスがもちいる「理性」は、「合理性(Rationality)」の意味合いがつよい近代哲学とは、かなり異なります。

どちらかといえば「自己啓発の思考法」にちかく、その意味では、実践的といえます。

外の出来事は、主観の反映にすぎない

答えが「内面」にあるとすれば、外にできごとは、すべて幻想で、主観の反映にすぎないことになります。

きみが心を傾けるべきもっとも手近な座右の銘のうちに、つぎの2つのものを用意するがよい。 そのひとつは、事物は魂に触れることなく外側に静かに立っており、わずらわしいのはただ内心の主観からくるものにすぎないということ。 もうひとつは、すべて君の見るところのものは瞬く間に変化して存在しなくなるであろうということ。(no.0629)

たとえば、だれかが、あなたにたいして「悪口」「陰口」を言ったとします。

それについて、傷つき、怒り、ネガティブな感情を引き起こすのは、すべてあなた次第です。

あなたの主観が、勝手に「悪い」「ムカつく」と判断したわけです。

あいての言葉は、事実として、外に存在します。

それだけのことで、「傷ついた」「被害をうけた」と感じるのは、あなたの〝心もち〟次第なわけです。

だれそれが、きみのことをひどく悪くいっている、と人に告げられた。これはたしかに告げられた。しかし、きみが損害を受けた、とは告げられなかった。(no.2067)

つまり、外のあらゆるできごとは、あなたの主観・判断がつくりだしているにすぎないわけです。

承認&名誉も幻想

これは、ポジティブなできごとも同じです。

だれかにもホメられたり、チヤホヤされたり ─ いっけん、うれしいコトがらについても、主観がなせるワザです。

あなたにたいする言葉は、外にとどまっているだけです。

その言動を「認められた」「うれしい」と判断し、受けとるのは、あなたが勝手におこなっているだけです。

名誉を愛する者は、自分の幸福は他人の行為の中にあると思い、享楽を愛する者は自分の感情の中にあると思うが、もののわかった人間は自分の行動の中にあると思う〔……〕(no.1457)

カンゼンにウソとは言いませんが、あいてのホメ言葉は「お世辞」かもしれませんし、単純に気をつかっただけかもしれません。

そもそも、あいての態度・判断は、月日がたてば、コロコロ変わります。

ショージキ、そんな言動に、いちいち一喜一憂しているほうが、もったいない。考えるだけムダです。

1時間のうちに、3度も自分自身を呪うような人間に、きみは賞められたいのか。自分自身にも気にいらないような人間に気にいられたいのか。(no.2105)

それよりも、内面をみつめるほうが、限られた人生を、よっぽど有意義に過ごせます。

隣人がなにをいい、なにをおこない、なにを考えているかを覗き見ず、自分自身のなすことのみに注目し、それが正しく、敬 であるように 慮る者は、なんと多くの余暇を得ることであろう。(no.0683)

答えは、内面&指導理性にある

ネガティブ / ポジティブにかかわらず、すこしでも感情が揺れ動いたら、すぐさま内面をみつめなおし、理性を活用する ─ 。

アウレリウスは、くりかえし訴えます。

周囲の事情のために強いられて、いわばまったく度を失ってしまったときには、大急ぎで自分の内にたちもどり、必要以上、節度から離れていないようにせよ。(no.1209)

移り変わる外部のできごとに、指導理性がみちびく自由意志を〝侵害・侵略〟させるべきではない。

私の自由意志にとって隣人の自由意志は無関係の事柄である。それは彼の息と肉が私に無関係なのと同様である。たとえ我々がいかに特別にお互い同士のために作られているとしても、我々の指導理性はそれぞれ自己の主権を持っているのである。(no.2115)

徹底して、外部と距離をとり、いちいち感情を揺さぶらない ─ 。

近代以前に、自由意識の価値を見出している時点で、かなり驚きです。

さらに、つぎのアドバイスは、ブッダの教えにも、通じるはなしだと思います。

きみがなにか外的の理由で苦しむとすれば、きみを悩ますのは、そのこと自体ではなくて、それに関するきみの判断なのだ。ところがその判断は、きみの考え一つで、たちまち抹殺してしまうことができる。(no.2050)

仏教の核心にせまる考えですね。

忍耐と寛容

「外はすべて主観の影にすぎない」とわかったところで、じっさいに、外の世界と、どのように関わっていけば良いのでしょうか。

ポイントは、

・忍耐
・寛容

です。

なにが起きても、キモチが揺さぶらないように〝耐える〟こと。

そして、理性をつかい、〝ひろいココロ〟で接することです。

生まれつき耐えられぬようなことはだれにも起らない(no.1065)

理性のない動物や一般の事物にたいしては寛大と自由とをもって処すがよい。なぜなら君には理性があり、彼らにはないのだから。(no.1294)

ちなみに、ここでいう「忍耐」とは、「我慢」のことではありません。いちいち感情を動かさない ─ アクセクしないという意味でのガマンです。

マジメな人は、とくに注意が必要なポイントです。

他人のイヤなトコ

たとえば、組織でも友人関係でも、他人と接するなかで、〝イヤなトコ〟が目についたり、されたりしたら、どうでしょう。

かれは、こう問いかけます。

他人の厚顔無恥に腹の立つとき、ただちに自ら問うてみよ、「世の中に恥知らずの人間が存在しないということがありうるだろうか」と。(no.2407)

はい、ありえませんね。

というわけで、「イヤなトコは、イヤなトコ」「厚顔無恥は厚顔無恥」とみなすのは、あなたの判断にすぎず、もろもろ「悪」は、そこらじゅうに〝はびこっている〟ことになります。

とすれば、それを知らない、あなたの判断にこそ「非がある」といえます。

無作法者が無作法者のすることをしたからとて、なんの悪いこと、怪しむべきことがあろうか。 その人間がそのような過ちを犯すであろうことを予期しなかったきみこそ、もっと責めを負うべきでないか考えてみるがいい。 なぜならば、その男がそのような過ちを犯すであろうと考えるだけのてだてを、きみの理性は、きみに与えてくれていたはずだ。それなのにきみはそれを忘れ、彼がその過ちを犯したからとて、驚き怪しんでいるのだ。(no.2420)

きびしいロジックでもあり、アドバイスでもありますが、冷静に考えてみれば、たしかにそうかもしれません。

とはいえ、この境地に達するまでには、〝感情のトレーニング〟を、かなり積む必要がありそうです。

どうしても、他人のイヤなトコに、納得できないなら、つぎのアドバイスを心にとめておきましょう。

きみ自身もまた多くの過ちを犯し、その点、他人と変りない。また、たとえきみがある種の過ちを犯すのをさし控えるとしても、そういうことをする傾向は持っているのだ。 〔……〕きみが臆病か、虚栄心か、なにかそうした卑しい考えのために同じような過ちを犯さなかったとしてもそうなのだ。(no.2898)

カンペキな人間なんていません。

あなただって、〝イヤなトコ〟をさらす、〝イヤなヤツ〟になりうるわけです。

「人のふり見て我がふり直せ」 ─ やはり解決策は、内面にしかありません。

おわりに

さいしょに述べたとおり、アウレリウス自身は、「こんなのムリだよなぁ」と思いながら、うえにあげたアドバイスを書いています。

たとえば、かれ自身が、もがり苦しんでいる場面が、多々みられます。

もう沢山だ。このみじめな生活、ぶつぶついって猿真似しているのは。どうしていらいらするのだ。なにか新しいことでもあるのか。なにが君を仰天させるのか。原因か? それを見るがいい。素材? それを見るがいい。これら以外にはなにもない。(no.2366)

書いてる本人がこんなかんじなのに、わたしたちが、すべての態度・思考法を、受け入れるなんて、できるはずありません。

なので、ときたま読み返し、いくつか実践してみるのが、効果的な使い方だと思います。

読めば、感銘を受けるトコがあるはず。

よければ、チェックしてみてください。

ではまた〜。