アケメネス朝ペルシャ ─ スサ・王の道・ゾロアスター教・ササン朝ペルシア【世界史】

どうも、りきぞうです。

大学のころから、世界史に親しんできました。

大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。

・アケメネス朝ペルシャについて知りたい
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?

きょうは、この問いに答えていきます。

答えは、つぎのとおり。

キーワード
・サトラップ
・王の目&王の耳
・王の道
・ペルセポリス
・ゾロアスター教
・ペルシャ戦争
重要人物
・キュロス2世
・カンビュセス2世
・ダレイオス1世
・ダレイオス3世
ポイント
オリエント一帯を統一したアケメネス朝は、各地にサトラップをおいたうえで、「王の目」「王の耳」とよばれた監察官を派遣し、広大な領土を統治した

この記事では、つぎの本を参考にしました。

以下、目次に沿って、みていきます。

アケメネス朝ペルシャ① ─ 形成

キュロス2世

アケメネス朝は、ペルシャ人による王朝です。かれらはもともと、4国分立時代に繁栄していたメディナ王国に従っていました。

しかしキュロス2世の指導のもと、メディナを滅ぼし、独立をはたします。この時点ではじめて、アケメネス朝を建国することになります。

その後も勢力をのばしていき、リディアと新バビロニアを滅亡させます。

新バビロニアを滅ぼしたさいには、捕えられていたヘブライ人(ユダヤ人)を解放しています。そのため、かれらにとってキュロス2世は救済者としてみなされるようになっていきます。

キュロス2世は、オリエントにのこる最後の勢力、エジプトの侵攻を始めようとします。

しかし、道なかばで力尽き、エジプトの征服は、むすこのカンビュセス2世へと託されます。彼は亡き父親の期待にこたえ、エジプト征服を達成し、アッシリア帝国以来、約100年ぶりに、全オリエントの統一をはたします。

アケメネス朝ペルシャ② ─ 発展

ダレイオス1世

カンビュセス2世のあとを継いだのが、王家直属の武将だったダレイオス1世です。

クーデターにより王位を奪ったフシがありますが、内部の反抗者をおさえながら、帝国の政治運営を始めます。ペルシャ帝国は、ダレイオス1世のころに統治基盤がつくられ、もっとも繁栄します。

出典:『一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書』

以下、ダレイオス1世がおこなった施策をみていきましょう。

サトラップと監督官

全オリエントをおさめた段階で、ダレイオス1世は、全国を約20州に分けます。地区に分割しないと、領土があまりに広大すぎるために、まともな統治ができないからです。

各エリアにサトラップ(=知事)を任命し、政治運営を任せます。

さらに中央から監督官を派遣し、地方官や民衆のあいだ不正がないか、チェックさせました。かれら監督官は「王の目 王の耳」とよばれました。

名まえから察するに、不正のチェックだけでなく、スパイ活動もおこなわれていたようです。

交通網と交易路

帝国全土を人びとが行き来できるように、ダレイオス1世は、道路網を整備します。

「王の道」とよばれる道をはりめぐらしうえで、ところどころに中継地をもうけ、駅伝制を施行します。小アジアの地方都市から首都スサまでなら、早馬で7日間もあれば到着したそうです。

「王の道」は、地方各地の情報を知るためにつくられました。そのいっぽうで、交易を促進させる役割もありました。

ダレイオス1世は、アラム人やフェニキア人の貿易を奨励し、盗難や略奪からまもるなど、手あつく保護しました。

結果、ペルシャ帝国の商業は、大いに発展します。

新しい都市の建設

帝国の首都はスサにおかれました。

いっぽうでペルセポリスにも巨大な建物をたて、ひとつの都市をきずきます。のちにペルセポリスを訪れたアレクサンドル王は、あまりの豪華さに目をみはった、といわれています。

しかし当初、ペルセポリスの役割は、よくわかっていませんでした。王がこの都市を訪れる機会が少なかったからです。さいきんでは儀礼用のためにつくられ、ここで朝貢のための使節をねぎらっていた、と推測されています。

文化&宗教政策

帝国では、ダレイオス1世の時代のまえから、楔形文字を表音化して、ペルシャ文字を作成する試みがなされていました。

以降、彼の治世においても、公文書などでペルシャ文字が積極的に使われるようになります。

また、国家の宗教としてはゾロアスター教を採用していました。

その考えは、

世界は、光明神アフラ=マズダ/暗黒神アーリマンの争いの場であり、しばらくしてのち最後の審判がおとずれる

というものです。

「最後の審判」の考えは、こののち、ユダヤ教やキリスト教に影響をあたえます。

異民族への対策

帝国とよばれながらも、ペルシャでは異民族にたいして、わりと寛容でした。

各民族の交易をおしすすめていたトコからもわかるとおり、利益につながるなら、どんな人でも積極的にとりいれていました。

地方政治についても、軍役&貢納をきちんと守っていれば、民族の風習や慣習を尊重し、ある程度の自治も認めていました。

対外戦争 ─ ペルシャ戦争

全オリエントをおさめたあとも、ダレイオス1世は、すすんで外征にのりだします。

世界史において、とくに有名なのは、ギリシャへの遠征です。

いわゆるペルシャ戦争です。

帝国がおさめていたイオニア地域での反乱をきっかけに、ギリシャのアテネと戦争を起こすことになります。

結果は、ご存知のとおり、ギリシャの勝利におわりました。

しかしさいきんだと、ペルシャ戦争での敗北は、帝国にとって、それほどの大きな損害をあたえるものでなかった、といわれています。

じじつ、2度の戦い(マラトンの戦い&サラミスの海戦)に敗れたあとも、帝国の力はおとろえず、オリエントの覇権をたもったままでした。

むしろ、ペルシャ戦争のまえにおこわなれた、遊牧民スキタイとの戦いのほうが、大きな痛手をくったされる意見もあります。

アケメネス朝ペルシャ③ ─ 衰退

ペルセポリスの遺跡

ギリシャとの戦争では、さほどダメージをうけなかったものの、ダレイオス1世が亡くなって100年ほど経つと、帝国統治にほころびがみえはじめます。

きびしい軍役や重い課税から、地方での反乱もひんぱんにおこり、統治運営がむずかしくなっていきます。政治中枢でも権力争いがはげしくなり、軍閥同士の戦いが、たびたびおこります。

帝国が混乱しているなかでやってきたのが、マケドニア出身のアレクサンドロスです。

兵士の数では劣勢ながらも、ペルシャ帝国側の規律は、あってないようなものでした。イッソス戦いやガウガメイラ戦いなど、どの戦いにも勝つことができず、一方的にアレクサンドロスの軍勢におされます。

結果、都市ペルセポリスも陥落し、ここにアケメネス朝は滅亡することになりました(B.C.330年)。

おわりに

アケメネス朝ペルシャの歴史についてみてきました。

まとめると、こんなかんじです。

流れ
① アケメネス朝ペルシャの形成
② アケメネス朝ペルシャの発展
③ アケメネス朝ペルシャの衰退
キーワード
・サトラップ
・王の目 王の耳
・王の道
・ペルセポリス
・ゾロアスター教
・ペルシャ戦争
重要人物
・キュロス2世
・カンビュセス2世
・ダレイオス1世
・ダレイオス3世

この記事が、アケメネス朝ペルシャの歴史を知りたい人の参考になれば、うれしいです。

では、また。