フランク王国 ─ 発展理由・カール大帝・分裂

どうも、りきぞうです。

大学のころから、世界史に親しんできました。

大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。

・フランク王国について知りたい
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?

きょうは、この問いに答えていきます。

答えは、つぎのとおり。

キーワード
・メロヴィング朝
・アタナシウス派
・トゥール・ポワティエ間の戦い
・聖像禁止令
・カロリング朝
・カールの戴冠
・ギリシャ正教会
・カロリング=ルネサンス
・ヴェルダン条約
・メルセン条約
重要人物
・クローヴィス
・レオン3世
・カール=マルテル
・ピピン
・カール大帝
・レオ3世
・オットー1世
ポイント
・カールの戴冠をきっかけに、中世ヨーロッパの世界が形づくられた
・ヴェルダン条約&メルセン条約により、いまのドイツ&フランス&イタリアにつながる原型ができあがった

この記事では、つぎの本を参考にしました。

以下、目次に沿って、みていきます。

フランク王国の形成

トゥール・ポワティエ間の戦い(出典:wiki

フランク王国は、ゲルマン人によってたてられた国です。さいしょはメロヴィング朝が、つぎにカロリング朝がおさめます。

以下、それぞれの王朝の流れをみていきましょう。

メロヴィング朝

メロヴィング朝は、クローヴィスが即位することによって始まります。

即位したのち彼は、全フランクの統一をはたします。

くわえて、キリスト教を支持するさい、ローマ帝国で正統とされたアタナシウス派に改宗します。

これにはローマ系の住民や、カトリック教会との関係を円滑するねらいがありました。ほかにも、異端とされたアリウス派を支持する、べつのゲルマン部族に対抗する意味もありました。

さらにメロヴィング朝は、ブルグンド王国を併合し、ガリア統一をはたします。けれどその統一は一時的で、すぐさま分裂してしまいます。

クローヴィス以後は、国王に代わり、宮廷の長官である宮宰が、メロヴィング朝の実権をにぎるようになります。

王朝末期には、アラブ地域からおこったイスラーム勢力が、北アフリカを経由して、ヨーロッパ大陸に進出してきます。

イスラーム勢力をひきいていたウマイヤ朝軍をむかえうったのが、メロヴィング朝の宰相カール=マルテルでした。

激戦地となった川の名前から、両王朝の戦いをトゥール・ポワティエ間の戦いとよびます。

カール=マルテルは、ウマイヤ朝の軍隊を打ち倒し、キリスト教世界を防衛したとして、まわりの国々から一目おかれるようになります。

カロリング朝

カール=マルテルが亡くなったあと、むすこのピピンがあとを継ぎ、宰相となります。

しかしすでにメロヴィング朝の権威はあってないようなものでした。

タイミングをみはからったピピンは、メロヴィング朝を廃して、みずから国王に即位します。ここにカロリング朝が成立します。

ピピンは、クーデターにより権力を奪ったものの、ローマ教皇の支持をとりつけることで、対抗グループの勢いを封じます。

さらに彼は、教皇から〝お墨付き〟を強固なものにするために、ランゴバルト王国をうったのちに手にしたラヴェンナ地方を、教皇にゆずりわたします。

この譲渡を「ピピンの寄進」とよびます。このとき寄進された土地が、いまの教皇領の起源となります。

フランク王国の発展

カール大帝(出典:wiki

ピピンが亡くなったあと、カール大帝が国王の座につきます。

彼が即位したのち、フランク王国はよりいっそう発展します。そのプロセスを、つぎの流れに沿ってみていきましょう。

  • 領土拡大
  • 統治機構の整備
  • カールの戴冠

領土拡大

フランク王国がランゴバルト王国を征服したあと、カール大帝は、ザクセン人の討伐をおこないます。

さらには、アヴァール人を打ち倒し、イベリア半島にまで兵をすすめます。

彼の功績により、フランク王国はガリア一帯をおさめ、かつての西ローマ帝国に匹敵するほど、版図を広げました。

カールは、父ピピンの政策をひきつぎ、〔……〕南フランスおよびピレネー山脈・北イタリア・パンノニア・ザクセンと、王国の全方位に支配圏を拡張した。(p.157)

─ 『詳説 世界史研究』

統治機構の整備

また、内政においても統治機構を整備します。

全国を州に分けて、地方の有力者を伯に任命して、現地の統治を任せました。そのかたはらには、反乱をおこさせないよう、中央から巡察使をおくり、監督させました。

カールの戴冠

先代のピピン以降、カロリング朝とローマ教会は良好な関係をむすんでいました。

カール大帝のころには、両者のつながりは、よりいっそう強固になります。

その象徴的なできごとがカールの戴冠でした。

これは

教皇レオ3世が(かつての)西ローマ皇帝の冠を、カール大帝に授与する

というものです。

カール戴冠は、さまざまな影響をあたえました。

まとめると、つぎのようになります。

・西ローマ帝国の復興
・ビザンツ皇帝からのローマ教会の自立
・カロリング=ルネサンスの勃興
・西ヨーロッパ中世世界の成立

政治の面では、西ローマ帝国が復活したことで、地域一帯に統一と安定がもたらされます。

宗教の面では、ビザンツ帝国に従っていたローマ教会が、フランク王国の後ろ盾をえたことで、自立することができました。

それにともない、

ビザンツ皇帝が首長をかねるギリシャ正教会
vs
ローマ教皇が首長であるローマ=カトリック教会

の対立が激しさをまし、のちの東西教会分離(1054年)へとつながっていきます。

文化の面では、いわゆるカロリング=ルネサンスがおこり、カロリング朝の宮廷に、イギリスからアルクインを招いて、ラテン語による古典文化復興運動がもりあがりました。

さらに大きな枠組みでみた場合、カールの戴冠は、

古代ローマ・キリスト教・ゲルマン文化の3要素が融合したできごと

といえるものでした。

学術上、ここに「西ヨーロッパ中世世界が成立した」とされます。

フランク王国の分裂

オットー1世と教皇(出典:wiki

カール大帝が亡くなったあと、フランク王国の領土は3つのエリアに分裂します。

分割相続は、ゲルマン特有の習慣ですが、たぶんに親族争いの雰囲気をみせていました。

まずヴェルダン条約により、フランク王国は3つに分割されます、

つぎにメルセン条約により、中部フランスが分割されます。

これにより、いまのフランス・ドイツ・イタリアにつながる原型がつくられました。

以下、

  • イタリア
  • 東フランク(ドイツ)
  • 西フランク(フランス)

の順で、各地域の特色をみていきましょう。

イタリア

イタリア地域をひきついだカロリング王家の人たちは、10年も経たずに断絶しています。

その後も、イタリア半島という土地柄、さまざまな勢力が入り乱れ、まとまりのない状態がつづきます。

中世にかけて、

・教皇領
・諸侯領
・都市国家
・イスラーム勢力

の4つに分裂し、たがいにかけひきと争いをくりかえします。

東フランク(ドイツ)

東フランクでは、約30年後に、地域をひきついだカロリング王朝が断絶しています。

親族が途絶えたのち、国王は選挙により選出されていきます。

さいしょの国王はハインリヒ1世で、彼からザクセン朝がつづいていきます。

東フランクでもっとも重要な国王はオットー1世です。

たくましい彼は、レヒフェルトの戦いでマジャール人を敗ると、そのまま北イタリアへ遠征を開始します。

戦いの功績から、かつてのカール大帝と同じく、ローマ教皇から皇帝の冠を授かります。

これが、のちの時代までつづく神聖ローマ帝国の起源とされます。

以後、神聖ローマ帝国の皇帝は、ときにイタリアの勢力と協力し、ときに争いながら、イタリア政策を実施します。

いっぽう国内は分裂傾向をみせ、各地に散らばる諸侯が、それぞれ勢力をのばしていきます。

以後、東フランクでは各地の諸侯が幅をきかせ、ひとつの国にまとまることはできません。「領邦国家」などとよばれ、国家統一が最大の課題となっていきます。

西フランク(フランス)

西フランクでは、約100年後にカロリング王家が断絶します。

その後、パリの伯爵ユーグ=カペーが国王に即位し、カペー朝が開始されます。

しかし、カロリング朝ほど権威も権力もなく、ドイツに似て、諸侯の力がたいへん強いものとなっていきます。

王権の力は弱く、中央の宮廷では、各地の諸侯とのかけひきに、ほんろうされることになります。

おわりに

フランク王国についてみてきました。

まとめると、こんなかんじです。

キーワード
・メロヴィング朝
・アタナシウス派
・トゥール・ポワティエ間の戦い
・聖像禁止令
・カロリング朝
・カールの戴冠
・ギリシャ正教会
・カロリング=ルネサンス
・ヴェルダン条約
・メルセン条約
重要人物
・クローヴィス
・レオン3世
・カール=マルテル
・ピピン
・カール大帝
・レオ3世
・オットー1世
ポイント
・カールの戴冠をきっかけに、中世ヨーロッパの世界が形づくられた
・ヴェルダン条約&メルセン条約により、いまのドイツ&フランス&イタリアにつながる原型ができあがった

この記事が、フランク王国を理解するさいの参考になれば、うれしいです。

では、また。