どうも、りきぞうです。
大学のころから、世界史に親しんできました。
大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?
きょうは、この問いに答えていきます。
答えは、つぎのとおり。
・東清鉄道敷設権
・門戸開放
・戊戌の政変
・仇教運動
・扶清滅洋
・北京議定書
・康有為
・西太后
この記事では、つぎの本を参考にしました。
目次
変法運動と義和団事件① ─ 中国分割

日清戦争に敗れた清国は、その弱体化を晒し、以後、列強侵略の憂き目にあいます。
最初のきっかけはロシアでした。かれらは三国干渉により東清鉄道の敷設権を獲得します。その後、遼東半島南部も租借により手中におさめます。
ロシアの清国侵攻をみた欧米列強諸国は、同じく大陸進出をおしすすめていきます。
ただし、ほかの植民地エリアとは異なり、清国への植民地支配は借款によるものでした。
欧米列強は借款をあたえるかわりに、清国政府から、
・鉱山採掘権
・領地確定権
などを譲りうけ、事実上の実効支配をおこなっていきました。
これより日清戦争の敗北から10年も経たないうちに、清国は欧米列強の半植民地地域のような状態になります。
各国が勢力を広げたエリアは、つぎのとおりです。
・遼東半島
・旅順
・大蓮
・東清鉄道の沿線地域
ドイツ
・膠州湾
イギリス:
・威海衛
・九竜半島(北部)
フランス:
・広州湾
なお、アメリカは清国進出に遅れたため、
・機会均等
・領土保全
を提唱し、列強各国の進出をおさえこもうとしました。
変法運動と義和団事件② ─ 戊戌の変法

列強各国の進出が進む中で、当然ながら国内の中からも反発運動が起こります。
それが変法運動でした。
直接のきっかけは、清国が日清戦争に敗れたことです。敗北により、それまでおしすすめてきた洋務運動(近代化政策)の失敗がはっきりと分かり、新たな体制をもとめる運動(変法運動)が高まってきます。
変法運動の主導者は、
・梁啓超
などの若手官僚でした。
なかでも康有為は儒教の創始者孔子を改革者とする公羊学にもとづき、新たな民主化政策案を光緒帝に進言します。
その内容は日本の明治維新をモデルにし、立憲君主制を目指すものでした。
早速とりかかった皇帝は戊戌の変法(ぼじゅつのへんぽう)をおこない、
・憲法の制定
・西洋式の学校建設
・新軍の創設
を実施します。
しかしこの急激な近代化政策は、それまで宮廷権力をにぎっていた西太后や、洋務派をはじめとする保守派の抵抗にあい、弾圧されます。
その結果「戊戌の政変」とよばれるクーデターがおこり、皇帝は宮廷から追放され、幽閉されます。
さらに変法の指導者だった康有為たちも命を狙われ、かれらは日本へ亡命します。
こうして立憲君主政をめざした改革は短期間で幕をとじ、「百日維新」とよばれたりします。
変法運動と義和団事件③ ─ 北京議定書

いっぽう欧米列強の圧力が強まるなかで、王朝政府ではなく民衆のなかからも改革をもとめる動きが高まってきます。
そのうちのひとつが義和団による運動でした。
清国の植民地化がすすむまえ、北京条約の規定からキリスト教の布教が自由におこなわれていました。
それに反発した人びとが反キリスト教をかかげ「仇教運動」とよばれる大規模な排斥運動をはじめます。義和団もまたこの抵抗運動から勢力を拡大していきました。
かれらは山東省で結成したあと、各都市の教会を焼きはらい、さらには鉄道や電信までも破壊します。
やがて反キリスト教の動きは、ヨーロッパ文明の排除に変わり、義和団のメンバーは「扶清滅洋」をかかげたうえで、激しい暴力運動を展開します。
王朝政府もその鎮圧に手を焼いていました。けれど「欧米諸国を追いだす意味では利害が一致する」と考えた清朝は、義和団と手をむすび、列強諸国に戦争をしかけます。
しかし、いくら過激な武力集団であっても、貧しい民衆組織にすぎない義和団は、列強諸国の敵ではありませんでした。
ロシアと日本を中心とする8カ国連合が出兵すると、すぐさま反乱は鎮圧され、手をむすんだ清朝も負けを認めます。
戦争の結果、列強諸国と清国のあいだで北京議定書が策定され、これにより、
・賠償金の支払い
が約束されました。
義和団事件での敗北は、欧米列強の進出をうながし、清国の植民地化はさらにすすんでいくことになります。
おわりに
変法運動と義和団事件をみてきました。
まとめると、こんなかんじです。
・東清鉄道敷設権
・門戸開放
・戊戌の政変
・仇教運動
・扶清滅洋
・北京議定書
・康有為
・西太后
この記事が、変法運動と義和団事件を理解するさいのヒントになれば、うれしいです。
では、また。
 
                






