どうも、りきぞうです。
大学のころから、世界史に親しんできました。
大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?
きょうは、この問いに答えていきます。
答えは、つぎのとおり。
・使徒
・『新約聖書』
・コイネー
・アナタシウス派(三位一体説の立場)
・アルウス派
・パウロ
・コンスタンティヌス帝
この記事では、つぎの本を参考にしました。
以下、目次に沿って、みていきます。
目次
ローマとキリスト教① ─ イエスの形式主義批判

布教活動を始めたイエスは、ユダヤ教の形式主義を批判しました。
具体的な相手は、パリサイ派などです。
ユダヤ古来の選民思想をしりぞけ、神の絶対性と隣人愛を説きます。
信仰のさいごには、救世主(メシア)がおとずれ、人びとを救済すると、説教しました。
救世主をギリシャ語で「キリスト」ということから、イエスの説いた教えは「キリスト教」とよばれるようになっていきます。
しかし、あまりに過激な教えだったことから、ユダヤ教徒のうらみをかい、ユダヤの祭司たちは、ローマ総督ピラトに訴えます。
その結果、イエスは処刑されますが、弟子たちによって、「イエス復活」をはじめ、イエスの教えはひろまり、キリスト教が形成されていきます。
ローマとキリスト教② ─ 使徒ペテロ&パウロ

なかでも、使徒とよばれる者たちの伝道が、キリスト教の普及に大きく貢献しました。
有名なのは、ペテロとパウロで、ふたりは異邦人の信徒ながら、各地をわたりあるき、教会をきずいていきます。
さらに、2世紀〜4世紀にかけて、イエスの教えをのべた『新約聖書』が記されます。『新約聖書』は、コイネー(標準ギリシャ語)によって書かれました。
ローマとキリスト教③ ─ 帝国による弾圧

ますます増えるキリスト教徒に、ときのローマ帝国は警戒感をしめします。
無実の罪をなすりつけたネロ帝(64年)にはじまり、ディオクレティアヌス帝のころには、強い弾圧や迫害をくわえるようになります。
そんな不遇な環境下でも、キリスト教徒は、カンタコンベとよばれる地下空間で活動をおこない、信仰をたもっていました。
ローマとキリスト教④ ─ 帝国による公認

ふくれあがるキリスト教徒をまえに、これ以上おさえつけることはできないと判断した帝国は、軟化の態度をみせはじめます。
コンスタンティヌス帝のときには、ミラノ勅令を出し、キリスト教を公に認めました。
そのさい、キリストの教義について論争があり、
・アリウス派
の2派に分かれていました。
帝国は、ニケーア公会議でアナタシウス派を正統として、アリウス派を異端としました。
以後、アナタシウス派は三位一体説を確立し、アリウス派は、さまざまな変遷をだとり、ゲルマン人の世界へと広がっていきます。
帝国内にキリスト教が浸透していくなか、ユリアヌス帝が異郷復興を図ろうとします。けれど時代の流れから、彼の試みは失敗におわり、「背教者」の汚名をきせられます。
帝国末期のテオドジウス帝のころには、キリスト教が強制され、ほかの宗教はいっさい禁止とされます。彼の治世のときには、正式にキリスト教は国教として認められます。
ローマとキリスト教⑤ ─ 正統と異端

さいごに、正統と異端の流れをみていきます。
エフェソス公会議では、イエスの神性/人性を分けるネストリウス派は異端とされ、ローマ帝国内から追放されます。
しかしネストリウス派は、東方のササン朝ペルシャへ伝わり、中国の唐では景教として知られるようになりました。
またカルケドン公会議では、アナタシウス派の三位一体説が確立し、はんたいに、イエスの神性のみを認める単性論は異端とされます。
単性論もまた、帝国内から追放されるものの、シリア&エジプト方面に伝わり、帝国東部で広まっていきます。
おわりに
帝政ローマとキリスト教の関係についてみてきました。
まとめると、こんなかんじです。
・使徒
・『新約聖書』
・コイネー
・アナタシウス派(三位一体説の立場)
・アルウス派
・パウロ
・コンスタンティヌス帝
この記事が、帝政ローマ時代を理解するさいの参考になれば、うれしいです。
では、また。




