どうも、りきぞうです。
大学のころから、世界史に親しんできました。
大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?
きょうは、この問いに答えていきます。
答えは、つぎのとおり。
・ブリュメール18日のクーデター
・アミアンの和約
・ナポレオン法典
・トラファルガーの海戦
・アウステルリッツの戦い
・大陸封鎖令
・ライプツィヒの戦い
・ウィーン会議
・ワーテルローの戦い
・シュタイン
・ハルデンベルク
・ナポレオン戦争は、ヨーロッパに自由主義とナショナリズムをもたらした
この記事では、つぎの本を参考にしました。
目次
ナポレオン戦争① ─ ブリュメールのクーデター

フランス革命は恐怖政治をもたらしましたが、テルミドールのクーデターで収束にむかい、ひとまずの安定をとりもどします。
そんななか、行政機関として総裁政府が設置され、1795年の憲法が制定されます。
これにより制限選挙が復活し、議会は二院制となりました。
またロベスピエール独裁の反省から総裁の人数は5人と決まり、集団指導によって政治をおこなうことになりました。
しかし複数の人に権力が分散したことで、総裁政府はなかなか力を発揮できません。
そんな政府の指導力不足を見抜き、権力掌握をねらったのが軍人のナポレオンでした。
彼は保守系に属する王党派の反乱を武力でおさえこみ、反対派をはじめ人びとの支持をとりつけます。
また、私有財産の廃止をめざすバブーフ派がクーデターに失敗し、かれらが自滅したことで急進派勢力がナポレオンに賛同するようになりました。
いっぽう外交では、みずからの軍事能力をいかんなく発揮します。
イタリア遠征での勝利により、第一回対仏同盟を解体させます。これにより、革命以来たびたび侵攻してきたヨーロッパ諸国からの脅威を排除することに成功します。
ただし、イギリスとインドの交易断絶をねらったエジプト遠征では大敗をきっし、ナポレオンはイギリスの名総督ネルソンにアブギール湾の戦いで敗れてしまいました。
争いに勝利したイギリスは、ふたたび対仏同盟(第二回対仏同盟)を結成し、のちにナポレオンひきいるフランスに対抗します。
エジプト遠征は失敗したものの、ナポレオンはフランス国内の情勢を見計らって、戦地をあとをにして、パリに舞いもどります。
そのときすでに海外で戦果をあげていたナポレオンは、フランス国民にとって英雄でした。彼は、圧倒的な人民の支持を〝バック〟に政権転覆をおこないます。
これが有名なブリュメール18日のクーデターです。
計画はみごと成功し、ナポレオンは総裁政府を打ち倒したうえで、代わって統領政府を設置します。
ナポレオン戦争② ─ 統領政府

統領政府では、事実上のトップである第一統領にナポレオンが就任します。
かたちのうえでは行政権が3人の統領にあたえられましたが、実質的には第一統領であるナポレオンの独裁体制でした。
商工業者(ブルジョワジー)と農民の支持をうけた彼は、フランス人民の利益になるような政策を、つきつぎおこなっていきます。
おもな政策は、つぎの2つです。
・ナポレオン法典(民法典)の制定
なかでもナポレオン法典は重要で、法の制定により、
・法の前の平等
・契約の自由
が、フランス国家から保証されるようになりました。
ナポレオン法典が制定&施行されたことで、フランスをはじめ、その後のヨーロッパ諸国では近代市民社会の原理や思想が根づいていくことになります。
また外交面では、
・アミアンの和約(イギリスとの休戦)
を成立させ、周辺諸国との関係を安定させました。
ナポレオン戦争③ ─ 第一帝政

一連の成果からナポレオンは終身統領となり、ついには国民投票によって皇帝に即位します。
第一帝政の始まりです。
ナポレオン独裁に脅威を感じたイギリスは、アミアンの和約で解体した対仏同盟を三たび結成します(第三回対仏同盟)。
たしかにイギリスの予感は当たっていました。
国内で勢力基盤をかためたナポレオンは、ヨーロッパ大陸をねらい、つきつぎに戦争をしかけていきます。
大陸支配の流れは、つぎのとおりです。
↓
・アウステルリッツの戦い
↓
・大陸封鎖令
↓
・ティルジット条約
トラファルガーの海戦では、宿敵イギリスにふたたび敗れてしまいます。
しかし、ロシア&オーストリアを相手にしたアウステルリッツの戦い(三帝会戦)では、フランスが勝利をおさめ、第三回対仏同盟を解体させます。
ただし、同盟解体に危機感をいだいたドイツは、代わりにライン同盟を結成し、ナポレオンの脅威から逃れようとします。
なお、このライン同盟成立により、事実上、神聖ローマ帝国は消滅することになりました。
さらに三帝会戦の翌年には大陸封鎖令(ベルリン勅令)を発布し、大陸諸国とイギリスとの通商を禁止します。
英国への資源供給をたちきり、軍事力&経済力を削ぐのがねらいでした。またフランスの国内産業をうるおす意味もありました。
さらにその翌年にはティルジット条約をむすび、
・プロセインへの賠償命令
・ワルシャワ大公国の承認
・ロシアの大陸封鎖令への協力要請
などを取り決めます。
なお、これら一連の条約内容をうけて、プロセインでは近代化にむけて大規模な改革運動がおこります。
当時、専制君主制をしいていたプロセインでは、ナポレオンの国内政策をみならって、近代化を果たそうとする動きが、若者や学生のあいだで活発になります。
具体的には、
・軍制改革
・教育改革
の3つです。
そのさい哲学者のフィヒテは「ドイツ国民に告ぐ」というタイトルで公演をおこない、国民意識の発揚をうながしました。
以降、プロセイン(ドイツ)にかぎらず、ナポレオンの影響から世界各地で近代化運動が隆盛していくことになります。
ナポレオン戦争④ ─ 帝政の没落

ナポレオンは、ハプスブルク家のルイーズの結婚としたとき、その権勢は絶頂をむかえます。
しかし、ヨーロッパ伝統の王家をむすばれたとき、彼の没落は始まっていました。
皮肉なことに、ナポレオンの衰退をもたらしたのは彼のかかげていた〝人民第一主義〟でした。
それによりフランス国民のみならず、ヨーロッパ各国で、民衆のあいだで国民意識がめばえ、ナポレオンの侵攻に反旗をひるがえすようになります。
なかでもナポレオンの親族が国王としておさめていた、
・オランダ(弟 ルイ)
では、王国への反乱の動きは、たいへん規模の大きいものでした。
フランス軍は陸上での戦いは得意としていたものの、スペイン反乱ではゲリラ戦に苦しみ、なかなかおさめることができません。
なんとか権勢をとりもどそうとするナポレオンは、
・ライプツィヒの戦い
をたてつづけにおこないます。
しかし大陸封鎖令の無視を口実にしたロシア遠征では、いわゆる〝冬将軍〟に苦しめられ、敗北をきっします。
またライプツィヒの戦いでは、プロセイン&オーストリア&ロシアの連合軍にほんろうされ、得意の電撃戦も攻をそうさず、敗れてしまいます。
両戦争での敗北は、ナポレオンの権勢を地におとします。それにより、退位をうけたナポレオンは、なかば流刑のようなかたちで、エルバ島に移送されます。
その翌年、ナポレオンはエルバ島を抜け出し、ふたたびパリにもどってきますが、かつての勢いは残っていませんでした。
皇帝に復位し、宿敵イギリスを相手にワーテルローの戦いにのぞむものの、ウェリントンの戦略にはまり、敗れてしまいます。
敗北の責任から遠くセントヘレナ島に流され、そナポレオンはその地で生涯をとじることになります。
おわりに
ナポレオン戦争をみてきました。
まとめると、こんなかんじです。
・ブリュメール18日のクーデター
・アミアンの和約
・ナポレオン法典
・トラファルガーの海戦
・アウステルリッツの戦い
・大陸封鎖令
・ライプツィヒの戦い
・ウィーン会議
・ワーテルローの戦い
・シュタイン
・ハルデンベルク
・ナポレオン戦争は、ヨーロッパに自由主義とナショナリズムをもたらした
この記事が、ナポレオン政治を理解するさいのヒントになれば、うれしいです。
では、また。




