フランス革命 ─ 第三身分・フイヤン派/ジロンド派/ジャコバン派・バスティーユ・恐怖政治【わかりやすく解説】

どうも、りきぞうです。

大学のころから、世界史に親しんできました。

大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。

・フランス革命について知りたい
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?

きょうは、この問いに答えていきます。

答えは、つぎのとおり。

キーワード
・旧制度
・第一身分/第二身分/第三身分
・『第三身分とは何か?』(シェイエス)
・三部会
・国民会議
・球技場の誓い
・バスティーユ牢獄
・封建特権の廃止
・人権宣言
・フイヤン派/ジロンド派/ジャコバン派
・ヴァレンヌ逃亡事件
・立法議会
・ラ=マルセイエーズ
・国民公会
・第一共和政
・第一回対仏同盟
・恐怖政治
・封建地代の無償廃止
・テルミドール9日のクーデター
重要人物
・ルイ16世
・ロベスピエール
ポイント
・フランス革命は貴族の抵抗からはじまり、その後[フイヤン派 → ジロンド派 → ジャコバン派]へと主導権が移っていった
・革命は恐怖政治をもたらし、テルミドールのクーデターをきっかけに収まっていった

この記事では、つぎの本を参考にしました。

以下、[背景 → 展開 → 進展 → 影響]の順で、フランス革命の流れをみていきましょう。

フランス革命① ─ 背景

第三身分をあらわす戯画

フランス革命以前の状況を「旧制度(アンシャン=レジーム)」とよびます。

ときの国王はルイ16世で、王妃はマリー=アントワネットでした。

当時のフランスは、

・第一身分(聖職者)
・第二身分(貴族)
・第三身分(平民)

といったかたちで身分が分かれていました。

聖職者と貴族は免税特権&土地所有が認められるいっぽう、平民は重い税を強いられ(選挙権など)政治上の権限はまったくありませんでした。

第三身分は全人口の9割を占め、フランス財政を支えているのに、政治運営には関わることができませんでした。

かれらの不満&反発が、革命運動へとつながっていきます。

革命の要因

革命の要因を、もうすこし詳しくみていきましょう。

つぎの4つです。

・旧制度への不満
・啓蒙思想&アメリカ独立革命の影響
・イギリス製品輸入による国内産業の停滞
・対外戦争による財政難&財政改革の失敗

革命以前、知識層のあいだでは啓蒙思想が広がり、ヴォルテールやルソーの作品がよく読まれていました。

啓蒙思想とは、

理性を絶対視し、偏見や迷信を打ちやぶったうえで、合理的な社会を目指す考え

のことです。

そんな啓蒙思想の影響をうけた知識人や若者が、いまの王政を転覆させたうえで、平民の利益になる合理的な社会をつくろう、とするのは当然でした。

さらにじっさいの事件として、アメリカ独立革命のニュースが伝わってきます。

これは、重税を課すなど強権的なイギリス政府にたいして、アメリカの13植民地が本国から独立を目指し、革命を成功させたできごとでした。

自分たちと似た境遇の人たちが革命を達成したことで、平民のなかでも革命の機運が高まっていきます。

いっぽう王政側も、平民の税負担を減らすため、さまざまな財政改革をおこないました。

経済にくわしいテュルゴーやネッケルを財務総監にすえたうえで、なんとか財政難を解消しようとします。

じっさい、これ以上の平民層への課税は困難と判断したふたりは、聖職者や貴族にたいして税金を払うよう要求します。

しかし、ふたりの取り組みは失敗におわり、たんに貴族たちは、一部の平民が参加できる三部会を開き、かれらの不満をきいたうえで、〝民衆のガス抜き〟をねらうだけでした。

とはいえ、この三部会の招集が、特権層や宮廷政府にとって〝アダ〟となります。三部会の開催をきっかけに、民衆の不満&反発が一気に爆発したからです。

フランス革命② ─ 展開

球戯場の誓い

三部会に参加した平民(第三身分)ですが、税負担の軽減以前に、そもそもの議決方法をめぐって特権身分と争います。

けっきょく折り合いがつかなったため、第三身分とリベラルな貴族たちだけで国民議会を設立します。

そのさい三部会が開かれた宮殿のとなりにある球技場(テニスコート)で、

憲法を制定するまでは、国民議会は解散しない

と誓います。

このときの宣誓を「球技場の誓い」とよびます。

なかなか妥協しない平民にたいして、国王はしぶしぶ国民議会を認め、議会は「憲法制定議会」と名前を変えます(1889年6月)。

バスティーユ牢獄の襲撃

けれど国王や特権層は議会設置を認めただけで、議会で決められた内容はいっさい承認しようとしませんでした。さらに国王側は、財政改革派とされていた財務総監ネッケルを罷免します。

これに怒りをあらわにした民衆は武力行使にふみきります。それがバスティーユ牢獄襲撃でした。

当時のバスティーユ牢獄には、王国に捕まった犯罪者が収監されていました。民衆側は、かれらを解放することで〝反王政のシンボル〟にしようとしました。

大恐慌の発生

パリでおきたバスティーユ襲撃のニュースは、すぐさま地方各地へ広がっていきました。

そのとちゅうで、人びとのあいだで話題になっていた「アリストクラートの陰謀説」とまじりあい、農民をはじめとする平民が聖職者や地元貴族を襲う事件が多発します。

結果、全国各地で「大恐慌」とよばれるパニックが生じました。

近代市民社会の成立

この事態におさめるため、さきに設置された国民議会は封建的特権の廃止を宣言します。

それにより、

・農奴制
・領主裁判権
・十分の一税

などが、事実上の廃止となります。

いっぽうで貢租は有償による廃止だったため、貧しい農民の不満はそのまま残ることになりました。

封建的特権の廃止後、ついに人権宣言がなされ、

・人間の自由と平等
・国民主権
・私有財産の不可侵

がはっきりと述べられることになりました。

封建的特権の廃止&人権宣言により、フランスでは身分制社会は否定され、個人の能力にもとづく近代市民社会が成立します。

ヴェルサイユ行進

それでも国王は、封建的特権の廃止も人権宣言の発布も、なかなか認めず、批准しようとしません。

国王側の態度に憤慨した民衆は、ふたたび反抗行為におよび、ヴェルサイユ宮殿まで行進し、国王一家の住居を、パリのテュイルリー宮殿に移します。そのうえで承認をしぶっていた国王に、ふたつの宣言を強制的に認めさせました。

フイヤン派による改革

国民議会の中心メンバーは、ミラボーやラ=ファイエットなど、自由主義系の貴族たちでした。かれらは「フイヤン派」とよばれました。

貴族の立場にいながら、民衆の利益をいちばんに考えていたフイヤン派は、つぎつぎに改革を実行します。

まとめると、つぎの4つです。

・教会財産の没収と払い下げ
・ギルドの廃止
・行政区画の改定
・メートル法の制定

いっぽうでフイヤン派は、立憲君主制の立場をとり、国王の存在はそのまま認め、ある程度の政治参加は許容しました。

フイヤン派は、フランス国王の追放 or 処刑をもとめるジロンド派やジャコバン派のほど過激ではなく、かれらとは一線を画していました。

ヴァレンヌ逃亡事件

しかしフイヤン派をはじめ、国民議会が国王の立場をそれなり認めているなかで、衝撃的なできごとがおこります。

ヴァレンヌ逃亡事件です。

これは、

ほぼ軟禁状態にあったフランス王家が、隣国オーストリアの手引きで国外逃亡をはかる

というものでした。

フランスの民衆からすれば、国王一家は自国の人民よりも、外国のオーストリアを信頼しているようにみえました。

そのためこの事件をきっかけに、平民の国王への信用は一気にうしなわれ、逃亡失敗したルイ16世&マリー=アントワネットは幽閉されることになります。

い王政廃止に危機感をいだいたオーストリアとプロイセンは「ピルニッツ宣言」をおこない、こののち何度も革命運動に介入するようになります。

フランス革命③ ─ 進展

断頭台にのぼるルイ16世

ヴァレンヌ逃亡事件がおきるなかで、平民側は立法議会をひらき、正式に憲法を制定します(1791年)。

ここに立憲君主政が成立します。

フイヤン派 vs ジロンド派

立法議会では、

フイヤン派
vs
ジロンド派

の対立が鮮明になっていきます。

争点となったのは、周辺諸国によるフランス介入への対応でした。

フイヤン派は「対外戦争に労力を割くべきではない」として非戦の立場をとります。

いっぽうジロンド派は「革命の成果を世界にアピールするためにも、対外戦争をおこなうべき」と主張します。

結果、フイヤン派をおさえこんだジロンド派が内閣をつくり、オーストリアに宣戦にし「革命戦争」とよばれる争いをおこします。

『ラ=マルセイエーズ』

とはいえ、革命直後で軍の体制が整っていないフランスは、苦戦をしいられ、連敗をかさねます。

しかしそんな状況を見かねた民衆は、率先して義勇兵募集をよびかけ、平民軍を組織します。そのさい、戦意向上のために唄われたのが、フランス国歌となる『ラ=マルセイエーズ』でした。

結果、義勇兵の活躍もあってフランスはパリの陥落をまぬがれ、さらにヴァルミーの戦いでは、オーストリア&プロセイン軍を相手に勝利を果たします。

8月10日事件

いっぽうフランス国内では「8月10日事件」がおこります。

これは、

パリの民衆と義勇兵が、国王一家のいるテュイルリー宮殿を襲撃し、ルイ16世を逮捕したできごと

です。

これにより王権の廃止が宣言されます。同時に新憲法制定のために、男子普通選挙が実施されます。

ジロンド派 vs ジャコバン派

選挙を経て、民衆の代表組織である国民公会が設置されます。

立憲君主政は廃止され、ここに共和政(第一共和政)が成立します。

国民公会では、立憲君主政を支持していたフイヤン派にかわって、

ジロンド派
vs
ジャコバン派

が火花を散らしました。

ジャコバン派の中心は、

・マラー
・ダントン
・ロベスピエール

の3人で、かれらは急進的な共和主義の立場をとっていました。

ルイ16世の処刑

[ジロンド派 vs ジャコバン派]の対立が激しくなるなかで、逮捕されていた国王の対処をめぐり話し合いがおこなれます。

王政に反対しているとはいえ、穏健な立場をとるジロンド派はルイ16世を国外追放したうえで、あらたにブルボン家の血をひく者を国の中心にすえることを提案します。

いっぽう過激は立場をとるジャコバン派は、王そのものをしりぞけ、ルイ16世の処刑を主張します。

はじめのうちはジロンド派が優勢だったもの、国王の対処をめぐっては、ジャコバン派の意見は、多数をしめることになりました。

その結果、ルイ16世の処刑が決まり、王妃マリー=アントワネットとともに、ギロチン台へおくられることとなります。

国王処刑に恐れをいだいた周辺国は、イギリス首相ピットのよびかけで対仏同盟(第一回対仏同盟)が結成されます。

それにたいして革命政府も、国内で徴兵制を実施し、対抗します。

フランス革命④ ─ 影響

テルミドールのクーデター

平民(市民)の利益を第一優先に考えてきた革命は、さいごはどうなったのでしょうか。それは恐怖政治でした。

国民公会では、平民の権利保護をうたったジャコバン派が、ジロンド派に代わって、勢力を拡大していきます。

かれらは、ふたたび「1793年憲法(ジャコバン憲法)」とよばれる基本法を制定して、

・男子普通選挙
・主権在民
・労働権の保護

にとりくみます。

さらに、

・封建地代の無償廃止
・最高価格令
・徴兵制
・革命歴
・公安委員会への権力集中

などをおこない、フランス市民の支持を高めていきます。

しかし過激かつ急激な改革は、事実上の実権団体である公安委員会への権力集中をもたらすことになります。

それにより、公安委員会のリーダーだったロベスピエールの権限がつよまり、結果、彼の独裁が始まっていきます。

権力を手にしたロベスピエールは、〝市民優先〟の名のもと、革命裁判所を設置したうえで、敵対する者たちをつきつぎ処刑していきます。

そのなかには、同じジャコバン派の同志だった、ダントンたちのすがたもふくまれていました。

しかし、恐怖政治に危機感をいだく者たちが、じょじょに多数派を占めるようになり、戦局は好転します。

・農民の保守化
・市場統制を嫌う商工業層の働きかけ

もあって、ロベスピエールひきいる公安委員会への反発が日に日に高まっていきます。

そんななか「テルミドール9日のクーデター」とよばれる政権奪取がおこり、恐怖政治をしいてきたロベスピエールが逮捕&処刑されます。

これにより恐怖政治は終わりをつげ、フランス革命は収束をむかえることになります。

おわりに

フランス革命をみてきました。

まとめると、こんなかんじです。

キーワード
・旧制度
・第一身分/第二身分/第三身分
・『第三身分とは何か?』(シェイエス)
・三部会
・国民会議
・球技場の誓い
・バスティーユ牢獄
・封建特権の廃止
・人権宣言
・フイヤン派/ジロンド派/ジャコバン派
・ヴァレンヌ逃亡事件
・立法議会
・ラ=マルセイエーズ
・国民公会
・第一共和政
・第一回対仏同盟
・恐怖政治
・封建地代の無償廃止
・テルミドール9日のクーデター
重要人物
・ルイ16世
・ロベスピエール
ポイント
・フランス革命は貴族の抵抗からはじまり、その後[フイヤン派 → ジロンド派 → ジャコバン派]へと主導権が移っていった
・革命は恐怖政治をもたらし、テルミドールのクーデターをきっかけに収まっていった

この記事が、フランス革命を理解するさいのヒントになれば、うれしいです。

では、また。