七月革命と二月革命 ─ フランス・1848年・原因・影響【わかりやすく簡単に解説】

どうも、りきぞうです。

大学のころから、世界史に親しんできました。

大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。

・七月革命と二月革命について知りたい
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?

きょうは、この問いに答えていきます。

答えは、つぎのとおり。

キーワード
・第二共和政
・第二帝政
・三月革命(ドイツ)
・サルディーニャ王国(イタリア)
・青年イタリア
・チャーティスト運動
重要人物
・シャルル10世
・ルイ=フィリップ
・ルイ=ナポレオン
ポイント
・1848年の革命によりフランスではウィーン体制が崩壊し、これをきっかけにヨーロッパ諸国のあいだでは自由主義とナショナリズムが広まっていった

この記事では、つぎの本を参考にしました。

七月革命と二月革命① ─ 七月革命の勃発&影響

七月革命

ウィーン体制後、フランスではブルボン朝が復活します(王政復古)。国王にはルイ18世とシャルル10世が就任しました。

当初はフランス市民も王国の政治に期待をいだいていました。しかし王朝政府側は、亡命貴族(革命により国外逃亡していた貴族)にたいして多額の賠償金を支払うなど、平民層を無視した政策をつぎつぎおこないます。

フランス民衆の不満が高まるなか、王国政府は人びとのうっぷんを回避するために、アルジェリア出兵(1830年)を開始、国内から海外の問題に関心の目をそらそうとします。

それでも平民たちの反発はおさまらず、王国側はおもいきって強行策にふみきり、七月勅命を出したうえで、

・議会解散
・言論統制
・選挙制限

をつぎつぎにおこないます。

王国政府の弾圧に怒りをおぼえたパリ市民は蜂起し、ときの国王シャルル10世をフランスから追放します。

これが七月革命です。

市民の代表者たちは、シャルル10世に代わって、自由主義思想をもつオルレアン公ルイ=フィリップを新たな国王にすえ、七月王政をスタートさせます。

各国への影響

七月革命は、ヨーロッパ各国にさまざまな影響をあたえました。

まとめると、こんなかんじです。

ベルギー(旧 南部ネーデルランド)
→ オランダから独立を宣言

ポーランド
→ 市民反乱ののちロシアにより鎮圧

ドイツ
→ 立憲運動が勃発するもメッテルニヒにより弾圧
→ プロセインを中心に関税同盟が発足

イタリア
→ カルボナリが蜂起するもメッテルニヒにより弾圧

イギリス
→ 第一回選挙法の改正

七月革命と二月革命② ─ 二月革命の勃発&影響

二月革命

七月革命以降の約10年間は、フランスは立憲君主政のかたちで政治運営がおこなわれていました。

しかし13年後の1848年、ふたたび革命がおこります。このときの革命をおきた年代から「1848年革命」とよびます。

以下、[背景 → 展開 → 影響]の順で、革命のなかみをみていきましょう。

背景

七月革命により、いったんは国王政府の〝暴政〟はおさまり、市民の自由がそれなりに認められるようになりました。

しかし政治の中心は銀行家などの資本家(ブルジョワジー)によって占められ、ふつうの平民は政治への参加権限をいっさいもっていませんでした。

一説では、選挙保有者の人数は全人口の1%にも満たなかった、といわれています。

いっぽうで、フランス経済は産業革命がすすみ、中小資本家や労働者でも、ある程度〝お金持ち〟になっていきます。しぜんとかれらは政治参加の権利をもとめるようになります。

そんななか、1840年代の後半に、凶作にともなう不況がおこります。それなりに豊かだった平民の生活は一変し、なにもしてくれない政府への不満が高まっていきます。

展開

革命をおこした直接のきっかけは、フランス政府が選挙法改正要求を弾圧したことでした。この強行策に怒りをおぼえたパリ市民は、ふたたび反乱をおこします(1848年2月)。

これが二月革命です。

ときの国王ルイ=フィリップは国外に亡命し、これによりフランスで第二共和政が成立します。

なお「第一共和政」は、1789年のフランス革命で国民公会がおかれたことで成立しました。このときも政治の中心から国王を追放したので「共和政」とよぶわけです。

第二共和政の政治運営は、どうだったのでしょうか? 流れをみると、こうなります。

・臨時政府の樹立

・男子普通選挙(四月総選挙)の実施

・大統領選挙の実施

まずはさっそく臨時政府がおかれました。政権には自由主義共和派と社会主義者(ルイ=ブランなど)が参加し、失業者対策として国立の作業場が設置されました。

つづいて男子限定の普通選挙がおこなわれます。「普通」とうたっていますが、女性には選挙権は認められていませんでした。

選挙の結果、社会主義者ではなく、自由主義共和派が圧倒的大差で勝利をします。

市民の支持をあおいだ政府は、社会主義者主導ですすめられた国立作業場を廃止します。労働者による蜂起(六月暴動)もありましたが、政府はかれらを鎮圧します。

さいごに大統領選挙がおこなれます。そのさい立候補のひとりとして名乗りをあげたのが、ナポレオンの甥っ子ルイ=ナポレオン(ナポレオン3世)でした。

はじめのうちは勝てるはずない思われていましたが、〝ナポレオン・ブランド〟の影響もあって当選を果たします。

さらに彼は大統領におさまらず、叔父のナポレオン=ボナパルトと同じく皇帝の座をねらいます。

ルイ=ナポレオンはクーデターをおこしたうえで、一般民衆に信を問うため、国民投票を実施します。

こちらも大方の予想に反して、フランス市民は彼を皇帝として認めます。ルイ=ナポレオンは「ナポレオン3世」として即位し第二帝政がスタートします。

影響

二月革命もまた、ヨーロッパ各地にさまざま影響をあたえました。

いちばんの震源地はドイツでした。二月革命の翌月にはドイツ市民が蜂起し「諸国民の春」とよばれる革命がおこります。

革命成立により、約30年まえにきずかれたウィーン体制は完全に崩壊します。オーストリアのウィーンでは、体制のシンボルだったメッテルニヒが失脚します。

またベルリンには自由主義内閣が成立します。

さらにフランクフルト国民議会が設置され、そこではドイツ諸邦の代表者が集まり、

・ドイツ統一
・憲法制定

について話し合いがおこなわれました。

とはいえ、どちらの議題もそうかんたんには解決されず、結論は出ないままでした。むしろ、

オーストリアのドイツ人地域をふくむ大ドイツ主義
vs
オーストリアを除外する小ドイツ主義

に分裂し、両派閥は対立をくりかえすようになります。

さいごは小ドイツ主義が勝利をおさめますが、プロセイン王がドイツ皇帝に就こうとするものの、自由主義をかかげる市民や、オーストリア支持の仇敵の反発に合い、失敗におわっています。

いっぽうイタリアではサルディーニャ王国が成立します。王国は北イタリア地域を支配するオーストリアに対抗し、戦争をしかけます。

できたばかりの国家は軟弱で、オーストリア軍のまえに敗北をきっします。

その後も青年イタリアのマッツィーニも革命戦争に参加しますが、こちらもひそかにオーストリアと手をむすんでいたフランス軍によって鎮圧されてしまいます。

また、同じくオーストリア領の一部だった、ハンガリー&ベーメンでも市民による反乱がおこりますが、こちらもオーストリア軍によっておさえこまれてしまいます。

おわりに

七月革命と二月革命についてみてきました。

まとめると、こんなかんじです。

キーワード
・第二共和政
・第二帝政
・三月革命(ドイツ)
・サルディーニャ王国(イタリア)
・青年イタリア
・チャーティスト運動
重要人物
・シャルル10世
・ルイ=フィリップ
・ルイ=ナポレオン
ポイント
・1848年の革命によりフランスではウィーン体制が崩壊し、これをきっかけにヨーロッパ諸国のあいだでは自由主義とナショナリズムが広まっていった

この記事が、七月革命と二月革命を理解するさいのヒントになれば、うれしいです。

では、また。