どうも、りきぞうです。
大学のころから、世界史に親しんできました。
大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?
きょうは、この問いに答えていきます。
答えは、つぎのとおり。
・ギリシャ正教
・『ローマ法大全』
・ハギア=ソフィア聖堂
・軍管区制
・屯田兵制
・プロノイア制
・ラテン帝国
・ヘラクレイオス1世
・ヘラクレイオス1世は、軍管区制(テマ制)と屯田兵制をしいて、ビザンツ帝国の統治を安定させた
この記事では、つぎの本を参考にしました。
以下、目次に沿って、みていきます。
目次
ビザンツ帝国の形成

ローマ帝国は東西に分裂したあと、コンスタンティノープルに都をおきました。
この東ローマ帝国を引き継いだのが、ビザンツ帝国でした。そのため、政治体制は帝政ローマの伝統である専制君主制をとります。
476年以降は、ただひとりのローマ皇帝として地中海世界を支配します。
経済面では、商業と貨幣経済が発展します。ノミマスとよばれたソリドゥス金貨は、交易の基軸通貨となります。
宗教はギリシャ正教を国教とし、皇帝はコンスタンティノープル総主教の任命権をもち、正教会を支配下におきました。
ユスティニアヌス大帝による再統一&ローマ法編纂
ビザンツ帝国の基盤をきずいたのはユスティニアヌス大帝です。
彼は、ゲルマン系のヴァルダン王国&東ゴート王国を滅ぼします。また西ゴート王国からイベリアの一部を奪いかえし、地中海世界の統一をはたします。
さらに東隣りのササン朝とも戦い、ときの君主ホスロー1世とたびたび抗争をくりかえします。
いっぽう内政については、法学者トリボリアヌスに命じて『ローマ法大全』を編纂させます。
『ローマ法大全』は、ローマ帝国時代からの法律をあつめたものです。勅法集・法学提要・学説集・新勅令の4部から構成されています。
編纂事業はローマ帝国の復興策であり、『大全』はその後のヨーロッパ法学に大きな影響をあたえました。
またユスティニアヌス帝は、首都コンスタンティノープルにハギア=ソフィア聖堂を建設し、帝国のシンボルとしました。
ユスティニアヌス1世は、ハギア=ソフィア教会を大ドームの聖堂として3度にわたり再建し、キリスト教世界の信仰と政治の中心として位置づけた(p.166)
─ 『詳説 世界史研究』
さらに中国から養蚕技術を導入し、国内産業として定着させます。ただし、大帝の死後は、アヴァール人の侵入をゆるし、北イタリアは、ふたたびランゴバルト人に奪いとられています。
ビザンツ帝国の発展

つづいて帝国を盛りあげたのは、ヘラクレイオス1世です。
外征については、シリア&エジプトの領有をめぐり、ふたたびササン朝ペルシャと抗争をくりひろげます。
ササン朝とアヴァール人は打ち倒し、ふたつの領土を手にします。
ただし、しばらくしてから勃興したイスラーム勢力により、シリアもエジプトも奪われてしまいます。
内政にかんしては、軍管区制(テマ制)と屯田兵制をしきます。
これは、帝国を軍管区に分け、それぞれのトップに司令官をおき、かれらに軍事&行政の権限をあたえるものです。
・大土地所有者の抑制
・徴兵&徴税の整備
の3つが、この制度のねらいでした。
領土の縮小と文化の発達
ヘラクレイオスが亡くなったあと、ビザンツ帝国の領土は、じょじょに縮小します。
おさめていたバルカン半島北部に、スラブ系の民族が進出してきたのが、領地を減らす要因でした。
また、アジア系のブルガール人には、ブルガリア帝国の建国もゆるしています。
しかし、領土が縮むなかでも、帝国内でギリシャ化がすすみ、公用語もギリシャ語になります。それにより、文化レベルが上がり、さまざまな学問が発達することになりました。
ただし、宗教は厳格化の一途をだとり、レオン3世のときには、聖像禁止令を発付し、これにより、ローマ教会との対立が激化します。
中興のマケドニア時代
ビザンツ帝国は細々と生きのびているイメージですが、9世紀中ごろ〜11世紀中ごろにかけては、ふたたび勢力をもりかえしています。
いっぱんに「マケドニア時代」とよばれ、中興の時期とされています。
外征では、南イタリアとクレタ島の奪回に成功し、さきにあげたブルガリア帝国(第1次)を滅ぼしています。
11世紀の前半までには、首都コンスタンティノープルを中心に、西はバルカン半島一帯、東は小アジアの全域を統治下においています。
ただし、ここでも宗教がネックとなり、東西教会が分離したのをきっかけに、南イタリアの一部を失うことになります。
いっぽう帝国内では、大土地所有がすすみ、自由農民が没落したため、民衆ひとりひとりの生活は、たいへん苦しいものでした。
ビザンツ帝国の衰退

中興の時期をすぎると、ビザンツ帝国にも衰退のきざしがみえはじめます。
帝国内では、プロノイア制とよばれるしくみとったことで、貴族の大土地所有を認めることになり、結果、封建化がよりいっそう進行します。
外征では、マンジケルトの戦いで、イスラーム勢力のセルジューク朝に敗れ、アナトリアの進出をゆるしてしまいます。
首都コンスタンティノープルに権力と富が集中し、宮廷の内紛や地方からの蜂起(ほうき)も絶えなかった。東方でトルコ系のセルジューク朝が台頭して、マラズギルトの戦いで、ビザンツ帝国が敗北すると、アナトリアにおける勢力は大きく後退した。(p.167)
─ 『詳説 世界史研究』
この侵攻に危機感をいだいた皇帝は、西ヨーロッパのローマ教皇に軍事支援をもとめます。
このとき西側から支援に出された軍隊が、あの「十字軍」でした。
さいしょは要求どおり、イスラーム勢力を追いはらってくれました。
しかしあろうことか、第4回の十字軍は、ビザンツ帝国を助けるどころか、首都であるコンスタンティノープルを占領し、ラテン帝国をたててしまいます。
十字軍の背後には、海洋交易をめぐり帝国と長く争ってきたヴェネツィア商人が、裏で糸をひいていました。
そそのかされた十字軍がラテン帝国をきずいたことで、ビザンツ帝国の支配者層は、アナトリアに亡命し、臨時政権をたてます。
十字軍の権勢が弱まわったのち、コンスタンティノープルの奪還に成功しますが、以前ほどの力は残っていませんでした。
さいごは、台頭したオスマン帝国の侵攻に合い、メフメト2世によって滅ぼされています。
ビザンツ帝国の文化

ビザンツ帝国の文化も、みておきます。
ビザンツ文化の根底には、ギリシャ文化とギリシャ正教の考えが流れています。
公用語は、ギリシャ語です。
各分野をみていくと、まず美術については、モザイク壁画とイコン(聖像画)が、さかんです。
建築については、ビザンツ様式とよばれる手法が主流です。これは、円屋根・モザイク・正十字を基調とするものです。
代表的な建物としては、
・サン=ヴィターレ聖堂
・サン=マルコ聖堂
があります。
ビザンツ文化は、首都コンスタンティノープルの場所からも分かるとおり、東はイランやアラブ、東はヨーロッパに影響をあたえました。
とくに西欧にあたえたインパクトは大きく、ギリシャの古典を継承&発展させたビザンツ文化は、ルネサンス文化のひきがねとなりました。
また北方では、スラブ人にギリシャ正教とビザンツ文化をつたえて、東ヨーロッパの文化圏をつくりあげることになります。
おわりに
ビザンツ帝国の歴史についてみてきました。
まとめると、こんなかんじです。
・ギリシャ正教
・『ローマ法大全』
・ハギア=ソフィア聖堂
・軍管区制
・屯田兵制
・プロノイア制
・ラテン帝国
・ヘラクレイオス1世
・ヘラクレイオス1世は、軍管区制(テマ制)と屯田兵制をしいて、ビザンツ帝国の統治を安定させた
この記事が、ビザンツ帝国を理解するさいのヒントになれば、うれしいです。
では、また。