帝国主義時代のロシア ─ ボリシェヴィキ/メンシェヴィキ・第一次ロシア革命・血の日曜日事件【わかりやすく解説】

どうも、りきぞうです。

大学のころから、世界史に親しんできました。

大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。

・帝国主義時代のロシアについて知りたい
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?

きょうは、この問いに答えていきます。

答えは、つぎのとおり。

キーワード
・露仏同盟
・シベリア鉄道
・ロシア社会民主労働党
・ボリシェヴィキ
・メンシェヴィキ
・社会改革党
・第一次ロシア革命
・血の日曜日事件
重要人物
・ストルイピン
ポイント
・第一次ロシア革命により、国会(ドゥーマ)が開設されるものの、ストイルピン首相のときに専制政治が復活した

この記事では、つぎの本を参考にしました。

帝国主義時代のロシア① ─ 資本主義の発展

シベリア鉄道敷設のようす

本格的な帝国主義政策を始めるまえ、ロシアでは資本主義が発展します。

背景には農奴解放令がありました。

労働者が大量にうまれることで、工業化が進展し、国内の近代化もすすみます。

いっぽう露仏同盟をむすんだことで、フランスから多額の資本が流入し、産業の成長に拍車がかかります。それによりロシア国内のマーケットでは、供給にたいして需要が追いつけずデフレ状態におちいります。

そこでロシアは国家事業としてシベリア鉄道を敷設したうえで、市場獲得のため膨張政策をおこないます。

具体的には、つぎの地域にねらいをつけました。

・中央アジア
・東アジア
・バルカン半島

帝国主義時代のロシア② ─ 社会主義運動

メンシェビキの指導者たち

いっぽうロシア国内では、重工業の発展から労働者の数が増え、社会主義運動がもりあがります。

20世紀に入るまえまでには複数の労働党が結成され、ついにはロシア社会民主労働党が結成されます。ただしこの時点では政党の団結力はとぼしく、のちに労働党は、

・ボリシェヴィ(レーニン派)
・メンシェビキ(ブレハーノフ派)

に分裂してしまいます。

ボリシェヴィキらのメンバーは、資本主義が十分に発展した社会とみなし、皇帝支配をうちたおすブルジョワ民主主義革命と、労働者による社会主義革命を同時に行うべきと主張しました。

対してメンシェビキは、ロシアの資本主義が十分に発展したとはみなさず、当面はブルジョワ民主主義革命にとどまるべきと考えました。

けっきょく両政党の意見はまとまらず、不十分なまま労働運動はすすんでいくことになります。

いっぽうでナロードニキ運動の流れをくむ社会革命党も結成されます。こちらは農民への土地分配をめざし、農民層の権利拡大をはかります。

帝国主義時代のロシア③ ─ 第一次ロシア革命

血の日曜日事件

皇帝権力がじょじょに衰え、労働者の勢力が拡大するなかで、ついに第一次ロシア革命が勃発します。

直接のきっかけは、日露戦争でロシアが不利な立場に立たされていることでした。

戦況が悪化することで、ロシア国内の物資や食料がとぼしくなり、労働者をはじめ、民衆の不満が高まっていきました。

かれらは首都ペテルブルグに集まり、聖職者ガボン主導のもと皇帝政権にたいして食料&物資を要求します。

ただしこの請願運動は〝ちょっとしたデモ〟のようなもので、参加した人たちも皇帝打倒はおろか、じっさいに要求が通るとは思っていませんでした。

しかし皇帝軍は、あまりの人数と熱気に恐れをいだき、デモ隊にむけて銃を発砲します。銃声は鳴りひびき、運動参加者はつきつぎに倒れていきます。

このできごとを「血の日曜日事件」とよび、民衆を〝虐殺した〟皇帝政府に労働者たちは団結し「ソヴィエト(評議会)」を結成します。

以後、このソヴィエトがロシア革命の主導的な役割を担っていくことになります。

帝国主義時代のロシア④ ─ ストイルピン政治

ストイルピン

「血の日曜日事件」をうけた皇帝ニコライ2世は、首相にウィッテを就けたうえで、十月宣言を発表します。これは不満をもつ民衆にたいして寄り添い、融和をねらったものでした。

つづけて国会(ドゥーマ)を開設し、できるかぎり民衆の意見をとりいえるようにします。しかしこれには、ブルジョワジー層を支持にもつ自由主義者と、労働者層を支持にもつ社会主義者を切りはなすねらいもありました。

その結果、ブルジョワジーの議員は立憲君主政をめざすべく立憲民主党を結成し、政権運営にあたります。ある種の〝ガス抜き〟が図られたため、国会開設により革命運動は終息にむかいます(第一次ロシア革命の終焉)。

しかし約250年ちかく皇帝政治をおこなってきたロシアでは、議会政治はなかなかうまくいきません。国会開設後も民衆の利益になるような政策は実施されず、外交面でもロシアの勢力は衰えていきます。

しびれを切らした皇帝は、立憲君主政を無視して、専制政治を復活させます。議会派だった首相ウィッテを更迭して、代わりに皇帝権支持者のストルイピンを採用します。

強硬策をとる彼は自由主義系の議員をつぎつぎクビにして、議会を(半永久的に)に解散させます。

さらに議会の外にいる革命派を弾圧し、労働運動そのものを抑えこもうとします。労働者による革命をおこさせないため農業改革の一環と称して、反乱活動の温床となっていた農村共同体(ミール)を解体し、自営農業者を育成させます。

しかしストルイピンのねらいはうまくいかず、自力では稼げない農民がたくさんうまれ、民衆全体が貧しくなっていきます。社会不安が増大し、いつまた革命運動がおきてもおかしくない状況となります。

そこでストルイピンは、人びとの不満をそらすため、外交政策を積極的におこないます。第一次世界大戦のきっかけとなったバルカン半島に手をのばし、南下政策をふたたびおしすすめていきます。

しかしこの政策こそが、ロマノフ王朝を滅ぼす、第二次ロシア革命のきっかけとなっていくのでした。

おわりに

帝国主義時代のロシアをみてきました。

まとめると、こんなかんじです。

キーワード
・露仏同盟
・シベリア鉄道
・ロシア社会民主労働党
・ボリシェヴィキ
・メンシェヴィキ
・社会改革党
・第一次ロシア革命
・血の日曜日事件
重要人物
・ストルイピン
ポイント
・第一次ロシア革命により、国会(ドゥーマ)が開設されるものの、ストイルピン首相のときに専制政治が復活した

この記事が、帝国主義時代のロシアを理解するさいのヒントになれば、うれしいです。

では、また。