殷王朝&周王朝とは? ─ 遺跡・青銅器・神権政治・封建制度・諸侯・首都・易姓革命

どうも、りきぞうです。

大学のころから、世界史に親しんできました。

大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。

・殷王朝&周王朝について知りたい
・大事なキーワードは?
・この時代のポイントは?

きょうは、この問いに答えていきます。

答えは、つぎのとおり。

キーワード
・封建
・卿/大夫/士
・宗法
ポイント
・殷王朝は神権政治により邑(小村)を支配した
・周王朝は血縁にもとづく封建制をしき、華北一帯をおさめた

この記事では、つぎの本を参考にしました。

殷王朝の成立&展開

殷時代の青銅器

伝説では、中国さいしょの王朝は、禹とされています。その王朝をひきづくかたちで、夏王朝までつづいていった、とされます。

ただし、禹王朝も夏王朝も、いまだその存在は確認されていません。

遺跡として確認できるさいしょの王朝は殷王朝です。

B.C.16世紀〜B.C.11世紀にかけて権勢をふるっていた、とされます。

殷王朝の遺跡を殷墟とよびます。そこは王朝後期の都で、

・王墓
・宮殿
・青銅器
・甲骨文字

などが見つかっています。

また、都市のつくりは城郭都市でとよばれる小さな村が、ゆるやかな連合体をつくっていました。

そのうえで、複数の邑をおさめる大邑商を盟主としておき、邑制国家として全体をひきいていました。

王が軍事や農業をとりしきり、祭りと政治が一体となった神権政治をしいていた、とされます。

周王朝の成立&展開

周王 武王

約500年にわたり殷王朝がおさめていましたが、権勢にかげりがみえはじめます。

代わりに台頭したのがでした。

B.C.11世紀後半ごろから勢力をのばし、殷からみて西方の渭水流域で権力を拡大します。

伝承では、殷王朝の暴政をみかねた周の武王が〝世直し〟のために軍をすすめ、殷を滅ぼした、とされます。

殷を滅亡させた周は、みずからの王朝をきずき、都を鎬京(西安市)におきます。

易姓革命

ちなみに中国史では、王朝の交代を易姓革命とよびます。

易姓革命には2種類あります。

ひとつは、天命を失った支配者から平和的に権力をゆずりうける禅譲です。

もうひとつは、武力による権力の収奪で、放伐とよびます。

のちの思想家である孟子は、王朝交代のパターンには、禅譲/放伐の2つのかたちがある、としました。

[殷 → 周]の場合には、放伐のパターンをとりました。

西周の成立

権力をえた周王は封建をおこないます。

これは、親族や家臣たちに、封土として土地をあたえ、諸侯の位をさずけるものです。

武王は師尚父と〔中略〕功臣たちを各地に封じた。「封」とはもともと、草木を植えて、自分の土地の境界をしめすことを原義とし、一定の領地をあたえて諸侯とすることを意味した。(p.89)

─ 『詳説 世界史研究』

また、ひとつ位の下がる、

・卿(けい)
・大夫(だいふ)
・士(し)

にも封土をあたえ、その見返りとして軍役と貢納を要求しました。

このように周の統治制度は、血縁にもとづく氏族制から成り立っています。

共通の祖先をもつ親族(宗族)が、宗法をさだめ、それをもとに領地一帯をおさめていくのが特徴です。

おわりに

殷王朝&周王朝についてみてきました。

まとめると、こんなかんじです。

キーワード
・封建
・卿/大夫/士
・宗法
ポイント
・殷王朝は神権政治により邑(小村)を支配した
・周王朝は血縁にもとづく封建制をしき、華北一帯をおさめた

この記事が、殷王朝&周王朝を理解するさいのヒントになれば、うれしいです。

では、また。