どうも、りきぞうです。
大学のころから、世界史に親しんできました。
大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?
きょうは、この問いに答えていきます。
答えは、つぎのとおり。
・スエズ運河の建設
・ウラービー運動(オラービー運動)
この記事では、つぎの本を参考にしました。
目次
オスマン帝国の改革① ─ イェニチェリの廃止

ヨーロッパ諸国の圧力により、オスマンの中東統治が揺らぐなか、帝国国内からも改革の機運が高まります。
そのひとつが、近代化の足をひっぱるイェニチェリ軍団の廃止でした。王朝政府は、かれらの勢力を削いで、西欧式の軍隊を新たに編制します。
オスマン帝国の改革② ─ タンジマート
つづいて、ときの君主であるアブデュルメジト1世は、ギュルハネ勅令を出し「タンジマート」とよばれる近代化政策を始めます。
具体的には、
・行政
・軍事
・教育
の分野における改革でした。
スルタン主導による、いわゆる「上からの近代改革」で、イスラーム国家からヨーロッパ式の法治国家への転換をねらったものでした。
しかし、時代の流れにはあっていたものの、
・ヨーロッパ製品の流入による国内産業の衰退
からオスマン帝国は財産破綻の危機におちいります。
結果、君主(スルタン)への信頼が落ち、人びとのあいだで立憲制をめざす改革運動がおこります。
オスマン帝国の改革③ ─ ミドハト憲法

つづいて、スルタンの座をひきついだアブデュルハミト2世は、民衆の要求をうけいれるかたちで、憲法を制定します。
宰相にミドハトを就けて、アジアでは初となるミドハト憲法を制定します。
そこには、
・責任内閣制の設立
など、近代ヨーロッパ式の政治項目がしっかりと明記されていました。
しかし憲法が制定されたものの、実際の運用となるとうまくいきませんでした。
原因は、憲法制定の翌年におきたロシア=トルコ戦争です。
ヨーロッパ式の近代政治を行ったばっかりに軍事力がいちじるしく低下し、戦況はつねに不利な立場に追いこまれます。
それにより軍事支配層から立憲制政治への不満が爆発します。その結果、オスマン帝国はもとの専制国家へと逆もどりしてしまいます。
さらに戦争で敗れたオスマン帝国は、ベルリン条約でヨーロッパ領土をほぼすべて失います。
しかし、帝国の衰退をみた若者は「青年トルコ人」とよばれる改革団体を結成し、ふたたび憲法復活にむけた運動を開始していきます。
おわりに
オスマン帝国の改革をみてきました。
まとめると、こんなかんじです。
・タンジマート
・ミドハト憲法
・ロシア=トルコ戦争
・アブデュルハミト2世
この記事が、エジプトの近代化を理解するさいのヒントになれば、うれしいです。
では、また。




