モンテーニュ『エセー 第1巻』感想&レビューです。

成立年 1580年
構成 全57章

大学院では、人文系にすすみ、哲学・社会学を学んでいました。

社会人なってからは、予備校講師 → ウェブディレクター → ライターと、いろんな職業にたずさわってきました。

働くなかで思うのは、自分の市場価値をアップするには「教養」が大切だということ。

教養とは、なにか ─ それは、歴史と古典です。

なかでも、哲学分野の古典は、王道といえます。

わたしも、計500冊以上は、読んできました。

そのなかで、きょうは、

モンテーニュ『エセー 第1巻』

を紹介していきます。

『エセー』は3巻本です。

きょうは、その1巻分をみていきます。

ちなみに、「宮下訳」「Kindle版」で読みました。

翻訳では、「第1巻」を『エセー 1』『エセー 2』に分けて収録しています。

以下、[背景 → ポイント → 名言]の順でみていきます。

『エセー』の背景

モンテーニュは、1533年〜1592年に生きた人です。

フランスの作家、哲学者です。

当時は、古代ギリシャ&ローマの古典を見直す「人文主義運動」が盛んでした。

かれは、その代表者とされています。

貴族と子どもとして生まれ、父の死により、1568年にモンテーニュ城を相続しました。

かれの唯一の著書である『エセー』は、これ以降、書かれるようになります。

父親が「ボルドー市長」だったこともあり、1581年に就任しています。

『エセー』は、法官を退いたあと、1572年から執筆がスタートして、1580年に出版されました。

『エセー』のポイント ─ 「クセジュ?」

「クセジュ?」とは、「わたしは何を知っているだろうか?」の意味。

モンテーニュといえば、このフレーズが有名です。

「クセジュ?」のもと、現実を冷静に観察し、お互いが認め合う世界を模索していきます。

自らを正しいと思い込むのではなく、常に物事を疑い、独断的な思考を避ける。

宗教戦争にみられるように、偏見 or 狭い心は、戦争&残虐行為をもたらします。

過ごしやすい世界をつくり、生きやすい人生を送るには、独断思考におちいらず、寛容性を身につけることが必要 ─ そう考えます。

『エセー』の名言

以下、名言をあげて、モンテーニュの考えにふれていきます。

死に方について ─ 「メメント・モリ」

わたしは人が動きまわって、人生の務めをできるかぎり長くのばすことを望んでいる。そしてキャベツかなんかを植えていて、死ぬこととか、ましてや、未完成のわが菜園のことなど、全然気にもしていないときに、死が迎えにきてくれればいいと思っている。(no.1942)

─ 1巻 19章

有名な文言です。

『エセー』において、モンテーニュは、何度も「死」について言及しています。

いつ死んでもいいように、いまを生きよ

これが、かれの人生観です。

くわえて、

あなたが思うような死に方を期待するな

とも述べます。

死ぬことを考えながら、生きていない人からしたら、なんとも〝きびしい〟お言葉です。

しかも、死を考えながら生きている人でもあっても、あなたが思う死に方はできない、と言うんですから。

けれどモンテーニュは「独断」から述べているわけではありません。

独断は、かれがもっとも忌避する思考態度です。

過去の歴史&自分の体験から、「自分が死にたいように、死んだ人間なんか、めったにいない」と伝えます。

ちゃんと、事例をもちだして、説得するわけです。

そのうえで、モンテーニュ自身は、たとえ理想どおりの死に方はできないとわかりつつ、うえにあげた〝人生の締めくくり〟を述べるわけです。

このあたりの〝逆説ぶり〟が、かれの思考スタイルで、魅力でもあります。

死に方を学んだ人間は、奴隷の心を忘れることができた人間なのだ。(no.1876)

─ 1巻 19章

習慣の影響力

まったくもって、この習慣というのは、乱暴にして、油断のならぬ教師なのだ。それはわれわれのなかに、少しずつこっそりと、権威の足場を築いていく。(no.2592)

─ 1巻 20章

「死」のつぎに、モンテーニュがよく言及するのが「習慣」です。

習慣ほど、わたしたちの人生を支配するものはありません。

にもかかわらず、わたしは無自覚で、いつのまにかそれにしたがっている。

これほど恐ろしいものはありません。

たとえ自覚して、抗おうとしても、カンタンに修正・変革することはできません。

「ダイエットしよう」
「早起きしよう」

─ そう決意しつつ、何度それまでの習慣に〝張り倒されて〟きたか。。

それほどまでに「習慣」は強力で、心地良いものです。

われわれの判断や信念のなかで、はたして習慣に不可能なことがあるのだろうか? たしかに、いかにも突飛な考え方というものがある。でも、どれほど奇妙なものの見方であっても、それは習慣が、自分にとっていいと思う地域に、いわばルールとして植えつけて、築きあげたものではないのだろうか?(no.2665)

─ 1巻 20章

どちらに行こうと思ったって、このわたしは、習慣という柵のどれかをこじ開けなくてはいけない。それほどに習慣は、われわれの進むすべての道に、ぬかりなく立ちはだかっている。(no.1725)

─ 1巻 35章

モンテーニュの解決作は、ただ1つ ─ 習慣にたいして、むりに対抗しないこと。

もし変えたいなら、じょじょに変化させることです。

イチバンまずいのは、〝いきなり〟変えること。

自分の習慣ならば、あっさり〝つきかえされ〟、他人 or 社会ならば、強烈な反発はまちぶせています。

心地よく生きて死にたいなら、習慣・慣習とは争わずに、うまくやっていくことです。

そして変えたいなら、ちょっとずつ修正していくことです。

モンテーニュは、どこまでもリアリストです。

わが国民が、自分たちの風俗習慣以外には、完璧さの模範や基準を持っていないことを、わたしとしては許してやりたい気がする。というのも、その視野を、自分が生まれ育った習慣の範囲に限ってしまうというのは、別に一般大衆だけではなく、ほとんどの人間に共通した欠点なのだから。(no.4704)

─ 1巻 49章

おわりに

いまの「エッセイ」の語源になっているとおり、アリストテレスのように、体系的な哲学書ではありません。

自分が読んだ古典へのコメントや、自身のエピソードにたいする意見を記したものです。

いまのブログにちかいものがあります。

というわけで、語り口もやさしく、とても読みやすい内容になっています。

テーマも、「習慣」「友情」「怒り」など、すごく身近なトピックをあつかっているので、納得しながら読めます。

賢い知人が、そばで語ってくれているかんじなので、気楽に目を通すことができます。

また、翻訳者の宮下志朗さんの文章が、めちゃくちゃすばらしいです。

翻訳とは思わせないくらいの「なめらかさ」で、「ひらがな」「カタカナ」「漢字」のバランスはピカイチです。

日本語の文章としても、お手本にしたいくらいです。

よければ、翻訳をふくめ、モンテーニュの思想にふれてみてください。

ではまた〜。