クシャーナ朝とは? ─ 仏像・滅亡・金貨・文化・エフタル

どうも、りきぞうです。

大学のころから、世界史に親しんできました。

大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。

・クシャーナ朝について知りたい
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?

きょうは、この問いに答えていきます。

答えは、つぎのとおり。

キーワード
・上座部仏教
・大乗仏教
・ガンダーラ美術
重要人物
・カニシカ王
・ナーガールジュナ
ポイント
・ヘレニズム文化の影響により、クシャーナ朝の時代、インドでは仏像などのガンダーラ美術が隆盛した

この記事では、つぎの本を参考にしました。

クシャーナ朝の成立

クシャーナ朝時代の金貨(出典:wiki

マウリヤ朝が滅亡したあと、インドではなかなか統一する王朝があらわれません。

約150年の分裂期のあと、クシャーナ朝がインドに進出し、プルシャプラに都をおきます。

クシャーナ朝は、もともとイラン系のクシャーナ人がアフガニスタンに建国した王朝です(1世紀ごろ)。

じょじょにインド方面に進入し、ガンジス川流域を支配下におさめました。

1世紀になると、バクトリア地方から、イラン系のクシャーン人が、インダス川流域に進出し、クシャーナ朝をたてた。(p.75)

─ 『詳説 世界史研究』

クシャーナ朝の発展

カニシカ1世のロングコートとブーツ

クシャーナ朝の最盛期はカニシカ王のときです。

彼は、中央アジアからガンジス川中流域を手中におさめます。そのさい、ユーラシア大陸の東西交易路をおさえ、経済面で大きく発展します。

豊富な資金力から仏教も手厚く保護し、マウリヤ朝のアショーカ王と同じく、第4回目の仏典結集をおこなっています。

仏教の革新

ナーガールジュナ(龍樹)

また、クシャーナ朝の時代に仏教が大きく発達し、つぎのふたつのグループが台頭しました。

  • 上座部仏教
  • 大乗仏教

それぞれ、かんたんに説明します。

上座部仏教

上座部仏教は、部派仏教ともいわれ、出家による個人修行を重視する立場をとります。

当時クシャーナ朝と交易がさかんだった、スリランカ → 東南アジアへと、海洋ルートにのって広まっていきました。

なお、部派仏教や上座部仏教は、つぎの大乗仏教の対比から「小乗仏教」ともよばれたりします。ですが、この名まえには蔑みの意味が込められているため、さいきんではあまりつかわれません。

大乗仏教

大乗仏教も、数ある仏教の革新運動からうまれました。

そのなかでもナーガールジュナ(龍樹)による探求が、大乗仏教の発展に大きく貢献しました。

大乗仏教の特色は、

菩薩信仰を軸に、あらゆる人びとに救済を説く

という点です。

また、お寺につとめるお坊さんだけではなく、在家の生活を認めるトコも、上座部仏教との違いです。

ガンダーラ美術

教義と離れますが、クシャーナ朝のときには仏教美術も大きく発達しました。

なかでもガンダーラ美術は、ヘレニズム文化の影響をうけて、ギリシャ風の仏像製作がさかんにおこなわれました。

ガンダーラ美術は大乗仏教といっしょに、中央アジアから[中国 → 朝鮮 → 日本]へと広まっていきました。

クシャーナ朝の滅亡

クシャーナ人のルーツとされる月氏

約150年ほど経つと、クシャーナ朝もじょじょに衰えていきます。

ひとつの要因は、西方で勢力をのばしたササン朝ペルシャによる侵攻です。これにより軍事費が上がり、国家運営がきびしくなっていきます。

もうひとつは地方勢力の台頭です。もともとクシャーナ朝は、ゆるやかな連合体をとった国でした。

しかし交易などでさかえた地方豪族たちが力をつけ、クシャーナ王朝に反旗をひるがえすようになります。

これにより、クシャーナ朝は急速に力をおとし、さいごは滅亡するにいたります。

おわりに

クシャーナ朝についてみてきました。

まとめると、こんなかんじです。

キーワード
・上座部仏教
・大乗仏教
・ガンダーラ美術
重要人物
・カニシカ王
・ナーガールジュナ
ポイント
・ヘレニズム文化の影響により、クシャーナ朝の時代、インドでは仏像などのガンダーラ美術がうまれる

この記事が、クシャーナ朝を理解するさいのヒントになれば、うれしいです。

では、また。