どうも、りきぞう(@rikizoamaya)です。
大学院では、キャリア論と社会保障を研究していました。
社会人なってからは、予備校講師 → ウェブディレクター → ライターと、いろんな職業にたずさわってきました。
働き方についても、契約社員 → 正社員 → フリーランスと、ひと通り経験してきました。
働くなかで思うのは、自分の市場価値をアップするには「教養」が大切だということ。
・深くものごとを考えられる
こういう人たちは、キホン、教養を身につけています。
教養とは、なにか ─ それは、歴史と古典です。
なかでも、文学作品の古典は、王道といえます。
わたしも、計300冊以上は、読んできました。
きょうは、
を紹介していきます。
オースティンは、近代ヨーロッパ期の人物。
1700年代・後半〜、イングランドの田舎を舞台にした小説を書きました。
メインテーマは、女性の暮らしと恋愛&結婚 ─ 。
どの作品も、「平凡な日常」しか描きません。
しかし、たくみなストーリー展開と、皮肉・ユーモアにみちた文体で、読者をひきつけます。
近代以降の小説で、文体の面で、オースティンの果たした役割は大きい。
古典作品を読むうえで、かのじょの作品は、はずせません。
…
翻訳もたくさん出ています。
個人的には、中野訳がおすすめです。
海外の本ではなく、日本の小説を読んでいるようなナチュラルさです。
以後、引用番号も、うえ2冊によります。
目次
ジェイン・オースティン『高慢と偏見』の概要
ベネット家には、未婚のむすめが5人。
資産もないため、母親は、お金もちの相手と結婚させようといそぐ。
そんなとき、ちかくの邸宅に、資産家の「ビングリー」がやってくる。
チャンスとばかりに、むすめとのつながりをもたせる母。
期待どおり、長女ジェインと、ビングリーは惹かれあう。
いっぽう、ビングリーの友人・ダーシーにたいしては、母も、次女エリザベスも〝最悪の印象〟をもつ。
同じく資産家だが、エラソーで、愛想がなく、身分の低い相手をさげすむ ─ 。
さらに、ダーシーのわるいウワサを耳にするエリザベスは、ダーシーを「高慢なヤツ」とみなす。
けれど、ダーシーのほうは、エリザベスに惹かれ、告白 ─ 。
おどろくエリザベスだったが、高慢とみなす相手のプロポーズをことわる。
しかしその後、ダーシーにたいする印象・判断を〝くつがえす〟ようなできごとが、つぎつぎ起こり……。
…
メインテーマは、認知と錯誤です。
恋愛小説のカタチをとっていますが、
というコトをあつかいます。
文体はカンタンなのに、あつかうテーマは深い。
古典にふさわしい作品です。
分量ですが、全部で61章あります。
長さもほどほどで、ちょうどいいです。
ジェイン・オースティン『高慢と偏見』の詳細
以下、気になったトコをあげてみます。
構成&心情
のべたとおり、
これが、おはなしの軸になります。
エリザベスは、ダーシーを「高慢」とみなします。
いっぽう、かれの旧友・ウィッカムを「すてき」と判断します。
かつてウィッカムは、ダーシーに「聖職」の地位をうばわれ、苦しめられました。
「かわいそう」というキモチもくわわって、いっそうウィッカムに惹かれていきます。
しかしじつは、ウィッカムは、女にダラしなく、浪費家 ─ 。
むしろ、ダーシーはお世話したほうでした。
ウィッカムは、ダーシーからの「聖職」の提供を放棄して、かれから現金をもらっていました。
さいしょに印象・判断が、〝くつがえる〟ようすを、読者は楽しくことになります。
メインのプロットはこれだけですが、〝ひっくりかえった〟ときの心情描写が、すばらしい。
エリザベスは穴があったら入りたいほど、自分が恥ずかしくなった。自分はいまのいままで、ダーシーについてもウィッカムについてもまったく盲目で、不公平で、偏見のかたまりで、お話にならないほど何もわかっていなかったのだ。 (下・no.0119)
たとえ恋をしていても、こんなに盲目にはなれないだろうが、私が盲目になったのは恋のためではなく、虚栄心のためなのだ。(下・no.0124)
最初から無知と偏見にとらわれて、すっかり理性を失っていたのだ(下・no.0126)
さらにおもしろいのは、ダーシーにたいする印象だけでなく、ほかの人物・できごとも変化することです。
ダーシーは、エリザベスの家族の「品のなさ」を非難していましたが、それも当たっているようにみえてきます。
たとえば、イケメンの軍人を追いかけます「妹たち」を、以前ならスルーしていました。
けれど、下品なふるまいを笑えなくなります。
連隊がいなくなったあとのベネット家の嘆きぶりは、だいたいこんな調子だった。エリザベスはこれを面白がって眺めようとしたが、恥ずかしくて面白がることができなかった。母親と妹たちの軽薄さを非難したダーシー氏の正しさを痛感したからだ。(下・no.0484)
くわえて、「うまいなぁ」と思うのが、真相がわかるまえ、ウィッカムの素性にかんする情報が耳に入ってること。
私、友達としてあなたにご忠告します。ウィッカムさんの言うことは、あまり信用しないほうがいいわ。彼はダーシーさんからひどい仕打ちを受けたと言ってるそうだけど、それはみんなでたらめ。(上・no.1,740)
しかし、このセリフの主は、エリザベスが、嫌っている知人でした。
そのため、言葉どおりに、相手の発言を受けとれません。
ひとは、さいしょの印象・判断に、いかに支配されるか ─ 。
それを「恋愛小説」という、とっつきにくいストーリーにのせて、描いているわけです。
会話のテンポ
カンケツな文体のほか、会話もテンポがあって、おもしろい。
たとえば、エリザベスとダーシー、さいしょのやり取りは、こんなかんじ。
「〔……〕人間には、どんな立派な教育を受けても直せない、生まれつきの欠点があると思います」 「そしてダーシーさんの欠点は、あらゆる人間を憎む傾向があるということですね」 「そしてエリザベスさんの欠点は、人の言うことを故意に誤解する傾向があるということですね」ダーシーはにっこり笑って言った。(上・no.1056)
こういう皮肉っぽくって、クスっと笑える、会話がポンポンとびだすわけです。
また、一方的にダーシーをねらう、キャロラインとのやり取りも、おもしろい。
「手紙を書くのがほんとに早いのね」 「ぼくは遅いほうです」 「一年のうちに、ずいぶんたくさんの手紙をお書きになるんでしょうね!それに、お仕事の手紙もあるのよね!私にはとってもできないわ!」 「よかったですね、手紙をたくさん書く星の下に生まれなくて」 〔……〕 「あら、ペンがもうだめみたいね。削ってさしあげます。私、ペンを削るのは上手なの」 「ありがとう。自分のペンは自分で削ります」 「どうしたら、そんなにきれいに行を揃えて書けるのかしら?」 ダーシー氏は無言。 「〔……〕ダーシーさんは妹さんに、いつもこんなにすてきな長い手紙をお書きになるの?」 「たいてい長いですね。でも、すてきな手紙かどうかはわかりません」 「私はいつもこう思っていますの。長い手紙をすらすら書ける人は、手紙を書くのがうまいに決まってるって」(上・no.0856)
このあたりの〝コミュニケーション・ギャップ〟は、読んでいて、ほんと笑えますね。
格言と笑い
また、ト書きやセリフに記される格言も、なかなか〝真にせまって〟います。
たとえば、「謙遜」については、
「〔……〕謙遜ほど欺瞞的なものはないね」とダーシーが言った。「人の意見を無視しているか、間接的な自慢か、どちらかだ」(上・no.877)
これを「高慢」なダーシーに言わせているのが、またおもしろいですね。
また、「期待」「希望」については、
大きな期待をかけて待ち望んだことは、実際に実現すると、期待していたほどの満足は得られない(下・no.0615)
期待と希望の目標を新たに定め、その実現を楽しみにして、現在の自分を慰め、かつ、将来の失望にたいして心の準備をするほかない(下・no.0616)
といったかんじで、かなり「達観」した意見が、見受けられます。
また、ジェイン・オースティンは、書簡・手紙などで、創作するさい「観察」の重要性を、くりかえしのべています。
言葉どおり、人物描写やセリフも、奥ぶかいものになっています。
いままでは心痛のために情緒不安定になっていたが、いまは喜びのために、同じような激しい情緒不安定状態におちいった。(下・no.1783)
ベネット夫人にとっては、娘が駆け落ちして、結婚前に二週間同棲生活を送ったことよりも、娘が花嫁衣装もなしに結婚式を行なうことのほうが、はるかに由々しきことであり、はるかに恥ずかしいことなのだ。 (下・no.1870)
「われわれは何のために生きているのかね? 隣人に笑われたり、逆に彼らを笑ったり、それが人生じゃないのかね?」(下・no.2801)
…
こんなふうに、笑いをまじえた描写・記述でも、物語を引っぱっていきます。
おわりに
ジェイン・オースティン『高慢と偏見』をみてきました。
近代の古典文学において、ジェイン・オースティンの作品は、はずせません。
とはいえ、ムズかしくなく、たのしんで読めます。
気楽なキモチで、手にとってほしいと思います。
よければ、チェックしてみてください。
ではまた〜。

