イタリアの統一(リソルジメント) ─ 国家・運動・戦争・メリット【わかりやすく解説】

どうも、りきぞうです。

大学のころから、世界史に親しんできました。

大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。

・イタリア統一(リソルジメント)について知りたい
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?

きょうは、この問いに答えていきます。

答えは、つぎのとおり。

キーワード
・青年イタリア
・サルディーニャ王国
・未回収のイタリア
重要人物
・ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世
・カヴール
・ガリバルディ
ポイント
・「上から」と「下から」の統治運動が合わさることで、イタリア統一は達成された

この記事では、つぎの本を参考にしました。

イタリアの統一(リソルジメント)① ─ 背景

カブール

たびかさなるフランスの市民革命に影響をうけて、イタリア国内でも統一の機運が高まっていきます。

イタリアの場合、

・下からの統一
・上からの統一

の両方から、統一運動が展開されました。

下からの統一では「青年イタリア」とよばれる若者グループが共和主義を提唱し、イタリア統一をおこなうとします。

しかし、かれらの試みは1848年におきた革命でフランスに敗れたことで頓挫します。

いっぽう上からの改革は、サルディーニャ島をおさめるサルディーニャ王国主導のもとでおこなわれます。

こちらも1848年の革命で、オーストリアに敗れたことで失敗におわります。

けれどそののちヴィットーリオ=エマヌエーレ2世が国王に就任すると、状況は一変します。

彼は自由主義者のカヴールを宰相に就任させたうえで、近代化政策をおしすすめていきます。さらに黒海でおきたクリミア戦争に参戦し、国際上の地位を高めていきます。

ヨーロッパ諸国から信用をあつめたサルディーニャ王国は、勢いに乗ったまま国内に目をむけて、ふたたびイタリア統一にむけて運動を展開させます。

イタリアの統一(リソルジメント)② ─ 展開

エマヌエーレ2世を迎えるガリバルディ(テアーノの会見)

イタリア統一までの展開をまとめると、つぎのようになります。

イタリア統一戦争

中部イタリアの併合

両シチリア王国の占領

ヴェネツィアの併合

ローマ教皇領の占領

それぞれのできごとを、かんたんにみていきしょう。

イタリア統一戦争

イタリアの統一にとって、いちばんのネックはオーストリアによる統治でした。

そこでサルディーニャ王国は、隣国のフランスと密かに手をむすび(プロンビエールの密約)、支援をうけたイタリア側は、みごとオーストリアを打ち倒します。

しかし戦いのとちゅうで、フランス皇帝のナポレオン3世は、サルディーニャ王国の強大化を警戒し、密約に反して、軍をひきあげます。

十分なサポートを受けられなかったイタリア側は、ロンバルディア地域の獲得にとどまることになります。

中部イタリアの併合

イタリア北部で基盤をかためたサルディーニャ王国は、そのまま南下をはじめ、イタリア中部を併合します。

そのさい、後方のフランスから攻め込まれる心配があったため、宰相カヴールは、フランス領に接する、

・サヴォイア
・ニース

を譲りわたします。

割譲を見返りに、イタリアの統一運動に口を出さないことが、取り決められました。

両シチリア王国の占領

下からの統一運動で活躍した青年イタリア出身のガリバルディが、「千人隊」もしかは「赤シャツ隊」とよばれるグループを結成して、両シチリアを占領します。

ガリバルディら一派は、サルディーニャ王国を中心とイタリア統一に賛同していたため、両シチリアの領土を国王に献上します。

これにより、事実上イタリア王国が成立し、サルディーニャ国王は正式にヴィットーリオ=エマヌエーレ2世として即位します。

ヴェネツィアの併合

さらにイタリア王国成立の5年後、オーストリアとプロセインのあいだで戦争がおこります(普墺戦争)。

そのさいイタリアはプロセイン側につき、宿敵であるオーストリアの勢力を削ごうとします。

両者の戦いではプロセインが勝利し、軍事支援の見返りとして、イタリアはオーストリアからヴェネツィアを獲得します。

ローマ教皇領の占領

さらにその5年後には今度はプロセインとフランスのあいだで戦争がおこり(普仏戦争)、フランスは戦地への兵力増強から、それまでおさめていたローマ領から軍を撤退させることを決めます。

そのすきにイタリアは、手薄になったローマ領をそのまま占領し、ここにいまのイタリアにつながる領土が確立することになります。

イタリアの統一(リソルジメント)③ ─ 影響と課題

「未回収のイタリア」(緑&赤&紫の部分)

イタリア統一はほぼ完了しましたが、それでもまだ課題は残されていました。

まとめると、つぎの3つです。

・ローマ教皇との対立
・「未回収のイタリア」問題
・南北の経済格差

まず、フランスのすきをついて獲得したローマ領ですが、当然ながら教皇本人は、このふるまいを認めていませんでした、

ときの教皇ピウス9世は、みずからを「ヴァチカンの囚人」と名のり、イタリア政府をいっさい承認しませんでした。

また領土問題にかんしては、いまだイタリア文化圏の南チロル&トリエステの地域が、オーストリア領のままでした。

ふたつのエリアは「未回収のイタリア」とよばれ、以後、両地域の併合が問題になっていきます。

さいごは南北問題です。

当時のイタリアは、北部では工業が発展していたものの、南部では農業が中心でした。そのため北部と南部のあいだで経済格差がうまれ、その解消が問題になっていきます。

おわりに

イタリアの統一(リソルジメント)についてみてきました。

まとめると、こんなかんじです。

キーワード
・青年イタリア
・サルディーニャ王国
・未回収のイタリア
重要人物
・ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世
・カヴール
・ガリバルディ
ポイント
・「上から」と「下から」の統治運動が合わさることで、イタリア統一は達成された

この記事が、イタリアの統一(リソルジメント)を理解するさいのヒントになれば、うれしいです。

では、また。