ビスマルク体制 ─ 外交・勢力均衡・弱点&欠点・イギリス・影響【わかりやすく解説】

どうも、りきぞうです。

大学のころから、世界史に親しんできました。

大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。

・ビスマルク体制について知りたい
・大事なキーワードは?
・この時代のポイントは?

きょうは、この問いに答えていきます。

答えは、つぎのとおり。

キーワード
・文化闘争
・社会主義鎮圧法
・ビスマルク体制
・三帝同盟
・三国同盟
・再保障条約
ポイント
・ビスマルクは社会主義鎮圧法と社会政策の実施による「アメとムチ政策」で、ドイツ国民の統合をすすめた
・ビスマルク体制(外交)はフランスの孤立化と国内産業の育成を同時にねらうものだった

この記事では、つぎの本を参考にしました。

普仏戦争での勝利後、ドイツはドイツ帝国を樹立し、ヴィルヘルム1世が皇帝として即位します。宰相(首相)にはビスマルクが就任しました。

以後、ビスマルク主導のもと、ドイツ帝国はヨーロッパでの影響力を着々と高めていきます。

ビスマルク体制① ─ ドイツ帝国の構造

ドイツ軍司令部のようす(右手前がビスマルク)

ビスマルクの内政/外交をみるまえに、ドイツ帝国のなかみをみていきましょう。

統治制度

ドイツ帝国は、連邦制で成り立っていました。

そのなかみは、

・22名の君主
・3つの自由都市
・2つの帝国領

です。

いわゆる「モザイク国家」と非難される分散型の国家体制ですが、ビスマルクが登場したことで、統一にむけて舵をきっていきます。

また国民にたいしては立憲政治をしいていました。しかし立憲君主制といっても、プロセイン王が皇帝を世襲し、かつ、帝国宰相(=ビスマルク)は皇帝にのみ責任を負い、議会の力はあってないようなものでした。

そのためドイツの立憲政治は「外見的立憲政治」とよばれたりします。

実行権がないとはいえ「帝国議会」とよばれる議会は、かたちのうえでは開かれていました。

議員は男子普通選挙により選出され、皇帝や宰相に国民の意見を伝えていました。

けれどくりかえしのべるように、帝国議会に統治権限はほとんどなく、

・予算審議権
・法案提出権

の2つくらいしか認められていませんでした。

さらに法の執行をになう官僚や軍部はユンカー層が独占したため、これもまた帝国議会の無力化につながりました。

また、各邦の代表で構成される連邦参議院も設置されますが、領邦のひとつであるプロセインがほかの邦を圧倒し、立憲政治の形骸化をもたらしました。

ビスマルク体制② ─ ビスマルクの内政

社会主義者を押さえつけるビスマルクの戯画

以上のように、議会に力はなく、じっさいの権力&権限は皇帝や宰相に集中していました。

そんな宰相の座に就いていたのが、鉄血宰相とよばれたビスマルクです。

内政では、つぎのような政策をおこないました。

  • 「文化闘争」の実施
  • 社会主義者鎮圧法の施行
  • 社会政策による実施
  • 保護関税法の施行

それぞれかんたんにみていきます。

「文化闘争」の実施

文化闘争とは、

反プロセインをかかげた南ドイツのカトリック教徒(中央党)にたいして、帝国政府弾圧した事件

です。

プロセインの実効支配にたいする反対運動で、約10年間にわたり南部ドイツを中心におこなれました。

帝国政府は鎮圧に成功したものの、その後の社会主義運動のもりあがりうけて、かれらの勢力をとりいえるため、妥協の態度をしめすことになります。

社会主義鎮圧法の制定

文字どおり、社会主義鎮圧法とは、帝国成立に合わせて結成された、ドイツ社会主義労働党に対抗するためにつくられた法律です。

法が制定されることで、社会主義者への弾圧が正当化され、以後ドイツでは労働運動は下火になっていきます。

社会政策の実施

社会主義者鎮圧法により、労働運動を弾圧するいっぽうで、ビスマルクは、

・災害
・疾病
・養老

を保障する、一連の社会政策を実施します。

社会主義運動の鎮圧に不満をもつ労働者をとりこむねらいがあり、かれらを国家に統合することで国力強化にもつながりました。

いっぱんに、

・社会主義鎮圧法
・一連の社会政策

の併用は「アメとムチ政策」とよばれています。

保護関税法の制定

またビスマルクは労働者だけてなく、産業資本家にも支援の手をさしのべました。

それまでの自由貿易から保護関税政策に転換したうえで、

・重工業にたずさわる資本家
・農業にたずさわる地方地主(ユンカー)

を手厚く保護しました。

そのひとつが保護関税法の施行で、これにより第二次産業革命がおこり、ドイツでは工業化がますます加速していきます。

ビスマルク体制③ ─ ビスマルクの外交

ヨーロッパ各国の皇帝をあやつるビスマルク

帝国国内を発展させるいっぽう、ビスマルクは外交政策にも力をいれます。いっぱんにビスマルクによる外交の成果が「ビスマルク体制」とよばれます。

その基本方針は、

フランスの孤立化によるヨーロッパ秩序の獲得

というものでした。

彼の信条は〝フランスの牽制〟にあり、そのためにフランス以外の国々と手をとりあい、つぎつぎに同盟をむすんでいきます。

その過程は、つぎのとおりです。

・三帝同盟(ドイツ&オーストリア&ロシア)

・三国同盟(ドイツ&オーストリア&イタリア)

・再保障条約(ドイツ&ロシア)

三帝同では、フランスに軍をむけた場合の〝保険〟として、後方に位置するロシアと手をむすびます。

三国同盟では、フランスがチュニジアを保護国化したことに不満をもつイタリアと同盟をむすび、フランス南部に面したエリアをおさえます。

再保障条約では、三帝同盟の解消でくずれそうになったロシアをつなぎとめ、対フランスの関係を強化します。

ビスマルクの〝クモの巣のようなネットワーク〟により、ヨーロッパにおけるフランスの影響力は下がり、代わってドイツ帝国が主導権をにぎっていくことになります。

おわりに

ビスマルク体制をみてきました。

まとめると、こんなかんじです。

キーワード
・文化闘争
・社会主義鎮圧法
・ビスマルク体制
・三帝同盟
・三国同盟
・再保障条約
ポイント
・ビスマルクは社会主義鎮圧法と社会政策の実施による「アメとムチ政策」で、ドイツ国民の統合をすすめた
・ビスマルク体制(外交)はフランスの孤立化と国内産業の育成を同時にねらうものだった

この記事が、ビスマルク体制を理解するさいのヒントになれば、うれしいです。

では、また。