神聖ローマ帝国 ─ 分裂・滅亡・皇帝・大空位時代・金印勅書・七選帝侯【わかりやすく解説】

どうも、りきぞうです。

大学のころから、世界史に親しんできました。

大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。

・中世ヨーロッパにおける神聖ローマ帝国について知りたい
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?

きょうは、この問いに答えていきます。

答えは、つぎのとおり。

キーワード
・大空位時代
・金印勅書
・七選帝侯
・ハプスブルク家
・東方植民
・再版農奴制
・教皇党 vs 皇帝党
重要人物
・カール4世
ポイント
・大空位時代と金印勅書の発布により、神聖ローマ帝国の分裂は、不可避となった

この記事では、つぎの本を参考にしました。

神聖ローマ帝国の分裂① ─ イタリア政策

シチリア島

ドイツでは、君主が教皇から皇帝の冠をうけて以降、神聖ローマ帝国皇帝が君臨していました。

12世紀の中ごろから、シュタウフェン朝が始まり、これまでの王朝と同じように、イタリア政策を実施していました。

イタリア政策とは、イタリア王国にたいする干渉措置のことです。

しかし、戦費負担や政策方針の違いから、ドイツ国内は分裂し、神聖ローマ帝国のもとで、なかなか統一することができません。

フリードリヒ1世も、イタリア政策を実施しています。また彼は第3回の十字軍の参加し、「バルバロッサ(赤ひげ)」の愛称で知られています。

孫のフリードリヒ2世もおもしろい人で、シチリア王国生まれの彼は、そこを拠点にイタリア&ドイツを統一しようとします。

ローマ教皇の要請をうけて第5回十字軍を派遣しますが、本人はイスラーム文化に造詣が深く、キリスト教徒よりもムスリムのほうに共感をいだいていた、とされます。

というのも、彼の生まれ育った両シチリア王国は、ノルマン人に建国されたのち、都市パレルモを中心に、イスラーム&ビザンツ&ラテンの文化が、さかんに交流してたからです。

じじつ、イェルサレムをめぐる問題では、アイユーブ朝スルタンと話し合いのすえ、キリスト教徒&イスラーム教徒の両方に、巡礼を認める約束をとりつけます。

また学芸振興にも熱心で、ナポリに大学を創設しています。

神聖ローマ帝国の分裂② ─ 大空位時代

大空位時代を表した絵(出典:wiki

しかしフリードリヒ2世以降、それまでドイツをおさめていたシュタウフェン王朝が断絶します。

それにより、諸侯のあいだで新しい皇帝を決めなくてはならないものの、各貴族の利権争いが激しく、皇帝を選出することできません。

1256年〜1273年の間は、だれも玉座に座らず、事実上の皇帝不在となります。

この事態を学術上、「大空位時代」とよびます。

たんに皇帝がいないだけと思われがちですが、君主が不在になることで、ドイツ国内の秩序がたもてなくなり、よりいっそう混乱していきます。

当然ながら、人びとのいさかいも多くなり、土地や権限をめぐる争いも、ひんぱつします。

大空位時代は、皇帝不在だけを意味するだけでなく、国内の混乱が絶頂に達した時期でもありました。

神聖ローマ帝国の分裂③ ─ 金印勅書

金印勅書の写本(出典:wiki

その後、なんとか皇帝選出にいたりますが、諸侯間の利権争いは激しく、皇帝の地位はつねに不安定でした。

そんななか、大空位時代から約100年後、ときの皇帝カール4世が金印勅書を発布します。

これは

皇帝選出権を七選帝侯に限定する

といったものです。

七選帝侯とは、聖界/俗界をふくめた、

・ケルン司教
・マインツ司教
・トーリア司教
・ベーメン王
・ブランデンブルク辺境伯
・ファルツ伯
・ザクセン公

の7名をさします。

カール4世は、選出権をこの7名に限定することで、皇帝を選ぶときのゴタゴタを前もっておさえようとしました。

しかし、彼のねらいは裏目に出ます。

たしかに皇帝選挙のルールを決めたことで混乱はおさまりました。けれど領邦たち(≒ 半自立の君主)に権限をあたえたことで、かえってドイツ国内は、諸侯や都市の分裂がはげしくなります。

すべてあわせると約300にものぼり、ドイツは領邦国家へ様変わりしました。

結果、皇帝権は弱体化し、国内の統一はさらに難しくなります。

神聖ローマ帝国の分裂④ ─ ハプスブルク家

ハプスブルク家の紋章(出典:wiki

神聖ローマ皇帝の権限がせばまるなかで登場したのが、かの有名なハプスブルク家です。

ある地区の帝位を世襲したハプスブルク家は、皇帝権低下をしり目に、みずからの領地経営を積極的におこないます。

それにより、帝国の統一はさらにゆるみ、反対に、ハプスブルク家の影響力が、ドイツ国内に広がっていきます。

神聖ローマ帝国の分裂⑤ ─ 東方植民

東方植民における土地の割り当て(出典:wiki

皇帝による帝国統一がむずかしいなかでも、12世紀〜14世紀の農業生産高は、時を経るごとに向上しました。

そのために人口が増え、農地が足りなくなります。そこでドイツ諸侯たちは、エルベ川以東にむけて、植民活動を開始します。

いわゆる東方植民です。

移ったドイツ人たちは、もともといたスラブ人を支配し、農地耕作にあたらせます。

それによってドイツ北部に、

・ブランデンブルク辺境伯領
・ドイツ騎士団領

が形成されます。

また15世紀以降は、農奴制を強化する再販農奴制がすすみます。

農民層の賦役が復活し、グーツヘルシャフトとよばれた農場領主制により、ヨーロッパ向けの穀物生産が、さかんにおこなわれます。

ここから農作環境に恵まれたポーランドなどは、ヨーロッパの穀倉地帯とみなされるようになっていきます。

神聖ローマ帝国の分裂⑥ ─ スイスの独立

スイス独立のきっかけとなったモルガルテンの戦い(出典:wiki

婚姻政策により、ドイツ国内でハプスブルク家の影響力が強まるなか、かれらに抗うように、スイスが独立運動を開始します。

13世紀の後半から始まり、さいしょは3州のみが自治権を獲得して、共和政となりました。

その後、神聖ローマ帝国からも事実上の独立をはたし(15世紀末)、ウェストファリア条約で、スイスの独立が正式に決まりました(1648年)。

神聖ローマ帝国の分裂⑦ ─ イタリアの混乱

シチリアの晩鐘(出典:wiki

さいしょにみたとおり、神聖ローマ帝国は、成立当初からイタリア政策に熱心でした。

では、皇帝権が低迷したあとのイタリアは、どうなったのでしょうか。

こちらもドイツ国内と同じく、皇帝の〝しばり〟がなくなったことで、分裂傾向がよりいっそうすすみました。

当時の状況をあげると、こうなります。

・北部
→ ミラノ公国・ヴェネツィア共和国・ジェノヴァ共和国

・中部
→ フィレンツェ共和国・ローマ教皇領

・南部
→ 両シチリア王国

さらに、両シチリア王国は、さきにみたフリードリヒ2世亡きあと、フランス支配への反乱がおき、

・アラゴン家のシチリア王国
・アンジュー家のナポリ王国

に分裂します。

このときの反乱は「シチリアの晩鐘」とよばれ、ヨーロッパ中世史でも、ドラマ性の高い事件となっています。

またイタリア全体では、神聖ローマ皇帝が何度も領土介入をおこなったため、それぞらの都市部では、

教皇党
vs
皇帝党

のグループが生まれ、両党の対立は、日に日に激しくなっていきます。

おわりに

中世ヨーロッパにおける神聖ローマ帝国についてみてきました。

まとめると、こんなかんじです。

キーワード
・大空位時代
・金印勅書
・七選帝侯
・ハプスブルク家
・東方植民
・再版農奴制
・教皇党 vs 皇帝党
重要人物
・カール4世
ポイント
・大空位時代と金印勅書の発布により、神聖ローマ帝国の分裂は、不可避となった

この記事が、中世ヨーロッパにおける神聖ローマ帝国を理解するさいのヒントになれば、うれしいです。

では、また。