どうも、りきぞうです。
大学のころから、哲学に親しんできました。
大学院時代は、本格的に人文書・哲学書にあたってきました。
デカルトの哲学にも、ふれてきました。
同じように、知りたいなぁと思っている人もいるかと。
とはいえ、
・デカルト哲学のポイントは?
・かれの残した名言は?
─ こんな悩み&疑問をいだく人も多いはず。
そこで、この記事では、デカルトの考えをみていきたいと思います。
先に結論をいうと、つぎのとおり。
りきぞう
・「我思う、ゆえに我あり(コギト・エルゴ・スム)」をキーワードに、近代哲学の基礎を築いた
・「わたしが考えていることをやめるだけで、〔……〕わたしが存在したと信じるいかなる理由もなくなる」などの名言を残している
以下、目次にそって、[著者 → ポイント → 名言]の順でみていきます。
…
ちなみに、参考にしたデカルトの本は、こちら。
引用ページも、本書によります。
目次
著者
デカルトは、フランス人で、1596年〜1650年に生きた人です。
数学者でもあります。
主著は『方法序説』。
デカルト中期の作品です。
あまりに有名な著書のため、説明は不要かもです。
序説ということで、500ページをこえる科学書の序文です。
研究にかんする方法論を述べられています。
ポイント ─ 「方法論的懐疑」
デカルト哲学のポイントは、「方法論的懐疑」です。
カンケツにまとめると、つぎのとおり。
図解説明
方法論的懐疑とは、確実なものに到達するまでの思考手段。
・「この世は夢かもしれない」と意図的に疑いつづける
この思考方法を徹底することで、「我思う、ゆえに我あり(コギト・エルゴ・スム)」の真理へと到達できる。

ひとこと
方法論的懐疑とは、あらゆる対象を疑ってみる思考方法のこと。
・事象
・理論
などなど、確かだと思われているものごとをすべて疑う。
その結果、「疑っている自分」(=意識)は、確実ということが明らかになる。
これが、有名な「我思う、ゆえに我あり(コギト・エルゴ・スム)」のなかみです。
デカルトは『方法序説』で、この思考方法を提示しました。
序説ということで、科学論文の序文にあたる箇所です。
本体はおカタい文章で記述するいっぽう、『方法序説』は、くだけた形式で書かれています。
論文というより自伝書にちかく、かれの思考プロセスが、ていねいに記述されています。
カンタンなわりには、デカルト哲学の核心をつく話題がつづきます。
本書を読めば、かれの思想が、ほぼわかるかんじなので、まずは『方法序説』からを目をとおすと良いです。
名言
つぎに、デカルトの名言をあげていきます。
「考えているわたし」の肯定
〔……〕つぎのことに気がついた。すなわち、このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものがでなければならない、と。そして「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」というこの真理は、懐疑者たちの、どんな途方もない想定といえども、揺るがしえないほど堅固で確実はなのを認め、この真理を求めていた哲学の第一原理として、ためらうことなく受け入れられる、と判断した。(p.46)
─ 『方法序説』第4部
「我思う、ゆえに我あり(コギト・エルゴ・スム)」は、この箇所で述べられます。
意識の確実性にたどりつくまで、
・論証による推理
・記憶
を否定します。
この過程をたどったあとで、意識の確実性を肯定するわけです。
意外なのは、「意識の絶対性」とは、述べていないこと。
哲学史では、デカルトは〝意識の神格化〟を図ったなんて言われます。
けれど『方法序説』を読むかぎり、そこまで意識を絶対視していません。
「検証していくと、どうも意識だけは、確実に残るよなぁ」といったニュアンスです。
〔……〕自分が他のものの真理性を疑おうと考えていること自体から、きわめて明証的にきわめて確実に、わたしが存在することが帰結する。逆に、ただわたしが考えていることをやめるだけで、〔……〕わたしが存在したと信じるいかなる理由もなくなる。(p.47)
─ 『方法序説』第4部
〔……〕これらのことからわたしは、つぎのことを知った。わたしは一つの実体であり、その本質ないし本性は考えるということだけであって、存在するためにどんな場所を要せず、いかなる本質的なものにも依存しない、と。(p.47)
─ 『方法序説』第4部
このあたりも、じっさいに読んでみないと、わからないことですね。
意識/身体の区別
〔……〕このわたしは〔……〕わたしをいま存在している魂は、身体〔物体〕からまったく区別され、しかも身体〔物体〕より認識しやすく、たとえば身体〔物体〕がなかったにしても、完全にいまあるままのものであることに変わりはしない〔……〕。(p.47)
─ 『方法序説』第4部
デカルトといえば、意識の確実性を示しました。
そこから、意識/身体の区別し、心身二元論を提示します。
この考えが、哲学では「主観/客観」図式へとながれます。
また、人間/自然を切り離す「科学」の発展につながります。
その意味で、やはりデカルトの思想は、影響が大きいです。
自分で考える態度
〔……〕各人が自分に重大な関わりのあることについてなす推論では、判断を誤ればたちまち、その結果によって罰を受けるはずなので、文字の学問をする学者が書斎でめぐらす空疎な思弁についての推論よりも、はるかに多くの真理を見つけ出せると思われたからだ。(p.17)
─ 『方法序説』第1部
現在、いたるところで、近代の見直しが叫ばれています。
そのさい〝悪玉〟とされるのが、近代の思考法を築いたデカルトです。
なにごとも、
・主観/客観
では割り切れない、割り切るのはよくない、とされ、かれの哲学がやり玉にあげられます。
しかし『方法序説』を読むと、デカルト自身は、〝真摯に〟かつ〝フラットな〟態度で、学問にのぞんでいることが、わかります。
考えてみれば、デカルトの生きた近世ヨーロッパは、キリスト教の権威がくずれた時代 ─ 。
なにが正しいのか、わからない状況でした。
そのなかで、先入観にとらわれず、より自由な態度で、デカルトは学問に取り組んでいました。
考えを支持するかは別として、かれの思考態度は、ぜひ学びたいところです。
いまの時代のように、〝先がみえない時代〟だからこそ、かれのスタンスは参考になるような気がします。
まとめ
まとめると、
りきぞう
・「我思う、ゆえに我あり(コギト・エルゴ・スム)」をキーワードに、近代哲学の基礎を築いた
・「わたしが考えていることをやめるだけで、〔……〕わたしが存在したと信じるいかなる理由もなくなる」などの名言を残している
ぜひ、デカルトの哲学を知るうえで、参考にしてみてください。
ではまた〜。


