どうも、りきぞうです。
大学のころから、世界史に親しんできました。
大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?
きょうは、この問いに答えていきます。
答えは、つぎのとおり。
・ユンカー
・オーストリア継承戦争
・七年戦争
・ヨーゼフ2世
この記事では、つぎの本を参考にしました。
宗教改革や三十年戦争を経て、ハプスブルク家の権威は衰えていきます。
いっぽうで、出身地のオーストリアでは、絶対王政をしき、ひきつづき統治運営をおこなっていきます。
以下、[形成 → 進展]の流れで、オーストリアの絶対王政のようすをみていきしょう。
目次
オーストリアの絶対王政① ─ 形成

もともとハプスブルク家の領地は、オーストリアの一部にすぎませんでした。
その後、神聖ローマ皇帝の地位をえて、皇帝位を世襲し、ヨーロッパでの権勢を高めていきます。(武力ではなく)結婚政策をくりかえし、ドイツのベーメン地域を獲得します。
またカルロヴィッツ条約では、オスマン帝国から、
・トランシルバニア
を奪いとります。これにハプスブルク家によるオーストリアが原型ができあがり、以後、複合多民族国家として、東欧一帯をおさめていくことになります。
オーストリアの絶対王政② ─ 進展

一時は「火の沈まぬ国」とうたわれたハプスブルク家でしたが、宗教改革&三十年戦争を経て、その勢力を落とし、けっきょくはオーストリアのみをおさめる国へと縮小していきます。
オーストリア継承戦争と外交革命
そのなかで帝位に就いたのが、女帝マリア=テレジアでした。
彼女は皇帝カール6世亡きあと、なかば〝偶発的に〟皇帝の座に就任します。そのため、領内では反対する者も多く、バイエルン公などは「自分にこそ帝位継承権がある」と主張し、あらかさま反対運動をおこないます。
それでもなんとか反対派をおさえた彼女は、夫の意思をうけつぎ、国内の整備にあたります。その矢先におきたのがオーストリア継承戦争でした。
これは、
でした。
けれど実態は王位継承を口実にした領地争いで、フリードリヒ2世は王国強化のため、産業豊かなシュレジエン地方をねらっていました。
マリア=テレジアはなんとかプロセイン侵攻をおさえるものの、戦いには敗れ、アーヘン条約をむすばされることになります。
その内容は、
・皇帝位は夫フランツ1世に譲渡
・シュレジエン地方のプロセインへの割譲
で、オーストリアの国力をいちじるしく下げるものでした。
そこで彼女は、
・プロセインの孤立化
をおこなうために、宿敵だったフランスのブルボン家と同盟をむすびます。あまりの〝奇策〟に、このときの同盟は「外交革命」とよばれることになります。
これにより、イタリア戦争以来の[ハプスブルク家 vs ブルボン家]の対立は解消され、その一環として、マリア=テレジアの末娘であるマリー=アントワネットがフランスの王太子ルイ(ルイ16世)に嫁ぐことが決まります。
七年戦争と啓蒙専制政治
その後ふたたびオーストリアは、プロイセンと「七年戦争」とよばれる戦争をおこします。
さらなる領土獲得をねらうフリードリヒ2世ですが、思いのほか苦戦し、シュレジエン地方を維持するだけで精一杯でした。
そののちマリア=テレジアのむすこであるヨーゼフ2世が、共同統治のかたちで、オーストリア政治にあたります。
当初はうまくいっていたふたりですが、じょじょに折り合いが悪くなり、あろうことかヨーゼフ2世は、母の宿敵フリードリヒ2世に心酔します。ポーランド分割をもちかけられるなど、オーストリアはプロイセンの手の中で転がされるようになっていきます。
内政にかんしては、ヨーゼフ2世はフリードリヒ2世と同じく「啓蒙専制君主」を自称し、宗教寛容令を実施することで、信教の自由を認め、個人の自由を保障します。
しかし農奴解放政策では、たんに保守貴族や領内異民族の反発に合うだけで、〝上からの改革〟は失敗におわります。
以後オーストリアは、ほかの東欧諸国と同じく、市民階級の未発達から近代化におくれ、ヨーロッパの覇権から一歩おくれることになります。
おわりに
オーストリアの絶対王政についてみてきました。
まとめると、こんなかんじです。
・ユンカー
・オーストリア継承戦争
・七年戦争
・ヨーゼフ2世
この記事が、オーストリアの絶対王政を理解するさいのヒントになれば、うれしいです。
では、また。




