アリストテレス『ニコマコス倫理学』(光文社)感想&レビューです。

どうも、りきぞうです。

大学院では、キャリア論と社会保障を研究していました。

社会人なってからは、予備校講師 → ウェブディレクター → ライターと、いろんな職業にたずさわってきました。

働き方についても、契約社員 → 正社員 → フリーランスと、ひと通り経験してきました。

働くなかで思うのは、自分の市場価値をアップするには「教養」が大切だということ。

・良いアイデアを出せる
・深くものごとを考えられる

こういう人たちは、キホン、教養を身につけています。

教養とは、なにか ─ それは、歴史と古典です。

なかでも、哲学の古典は、王道といえます。

わたしも、計500冊以上、読んできました。

そのなかで、きょうは、アリストテレス『ニコマコス倫理学』を紹介していきます。

哲学の歴史は、古代ギリシャからはじまります。

ソクラテス → プラトンが基盤をかため、アリストテレスが体系化したかんじです。

かれの著書のなかでも、『ニコマコス倫理学』は、

・善き生
・徳(アレテー)
・知への愛(ソフィア)

などのテーマを、深堀り&探求した意味で、重要な位置をしめます。

これらは、古代ギリシャの哲学者たちが、まじめに考えたテーマだからです。

以下、[基本 → 概要 → 詳細] の流れで、みていきます。

ちなみに、わたしは、光文社古典新訳文庫の渡辺&立花訳で読みました。

この記事の引用ページは、こちらの本によります。

アリストテレス『ニコマコス倫理学』の基本

著者

著者のアリストテレスは、古代ギリシャの哲学者です。

B.C.384年〜B.C.322年まで生きた人です。

ちょうど、都市国家「アテネ」が衰退しているころで、じょじょに北部の国「マケドニア」の支配下に入っていきます。

じつは、アリストテレス自身も、マケドニア出身で、学問・研究のために、アテネに移住したかたちでした。

なので、生粋の「ギリシャ人」とはいえないかもしれません。

さらに、マケドニア王子「アレキサンドロス」の家庭教師もしていました。

その意味で、「アテネ」にたいする立ち位置は、ムズかしかったハズです。

著書

主著の一覧は、こんなかんじ。

・『形而上学』
・『ニコマコス倫理学』
・『政治学』
・『弁論術』
・『詩学』

本書『ニコマコス倫理学』は、アリストテレスの講義録です。

なので、直接かれが記したものではありません。

アリストテレスの子「ニコマコス」が、まとめてた内容とされています。

そのために、『ニコマコス倫理学』とよばれます。

アリストテレス『ニコマコス倫理学』の概要

本書は10巻で構成されます。

目次は、こんなかんじです。

第1巻 幸福とは何か ─ はじまりの考察
第2巻 人柄の徳の総論
第3巻 徳の観点からみた行為の構造、および勇気と節制の徳
第4巻 いくつかの人柄の徳の説明
第5巻 正義について
第6巻 知的な徳
第7巻 欲望の問題 ─ 抑制のなさと快楽をめぐって
第8巻 愛について
第9巻 愛について(続き)
第10巻 幸福論の結論

第1巻で、「幸福とはなにか」を定義します。

第2巻で、幸福につながる「徳(アレテー)」の内容について考察。

それをもとに、第3巻〜、さまざまな徳の種類をとりあげて、探索していきます。

読み方としては、第1巻&第2巻で、「幸福」&「徳」の定義と中身をみたあとに、「勇気」「節制」など、個別の「徳」をみていくのが、良いと思います。

第1巻〜第5巻で、「幸福」「善き生」とは、

・善の追求
・徳にもとづく行動

であると、定義します。

後半の第6巻〜第10巻では、善の定義をふまえつつ、

・学問
・快楽
・愛

など、より具体的な、個別テーマをみていきます。

ラスト10章で、「幸福とは何か」 ─ アリストテレスなりの結論をくだします。

アリストテレス『ニコマコス倫理学』で気になったトコ

以下、引用をあげつつ、気になったトコを、ピックアップしていきます。

幸福 = 善の追求・選択

幸福について、そうそうに定義します。

それは、

善の追求と選択

です。

あらゆるモノ or コトのなかで、「善」こそがイチバンだからです。

われわれによって為される事柄のなかに、われわれがそれ自身のゆえに望み、ほかの事柄をこの事柄のゆえに望むような、なんらかの目的があるとしてみよう。つまり、われわれはあらゆる事柄を何かそれとは別の事柄のゆえに選ぶのではないとしてみよう。(というのも、もしわれわれがほんとうに何もかもをその都度それと異なるもののゆえに選んでいるとすると、その過程は無限に進み、その結果、もとの欲求は空しく実質のないものとなるだろうから)。その場合、明らかにそうした目的こそが「善」であり、「最高善」であることになる。

(上巻 no.206)

欲にまかして、ほしいモノ or コトを選びきったさきに、「善」がのこる、といったイメージです。

思考実験をつうじて、「善」を最高位におくわけです。

善 = それ自体として追求・選択される事柄

では、善とはなんでしょうか。

それは、

それ自体として追求・選択される事柄

のことです。

つまり、比較できないモノ or コトが「善」であり、その追求・選択が「幸福」につながります。

われわれは、「それ自体として追求される事柄」を「ほかのもののために追求される事柄」よりも「いっそう完結したもの」と言い、また、「ほかのもののために選ばれることがけっしてない事柄」を「それ自体としてもほかのもののためにも選ばれる事柄」よりも「いっそう完結したもの」と言っており、「それ自体として選ばれ、ほかのもののために選ばれることがけっしてない事柄」を「限定ぬきに完結したもの」と言っている。そして、とりわけ幸福が、そうしたものであると思われている。というのも、われわれが幸福を選ぶのは、つねに幸福それ自体のためであって、けっしてほかの何かのためではないからである。

(上巻 no.562)

「善とはコレ!」と言いきらず、さまざまなコトを比較検討して、さいごに残ったものを「善」とします。

議論の展開としては、幸福を定義するやる方と同じですね。

善の追求=「徳(アレテー)」にもとづく行動

では、善の追求・選択とは、なにをさすのでしょうか。

それは、

「徳(アレテー)」にもとづく行動

です。

ここで、重要キーワード「徳(アレテー)」が出てきます。

この「徳」こそが、ソクラテス → プラトンが、「善き生」をおくるうえで、カギになると考えていました。

アリストテレスも、「徳」を重要視し、以下、深く細かく、考察していきます。

人間にとっての善とは徳に基づく魂の活動 となる。そしてもし徳が二つ以上だとしたら、 もっとも善く、かつもっとも完全な徳に基づく魂の活動 が人間にとっての善となる。

(上巻 no.619)

「徳」は、「名誉」より「稼ぎ」より、優先度は高い

「徳(アレテー)」の特徴としては、「名誉」(=承認・称賛)、「稼ぎ」(=お金)よりも、優先度が高い、という点です。

というのも、どちらも突きつめれば、「徳(アレテー)」をもとに行動し、善を追求した結果、獲得するものだからです。

名誉については、こうです。

名誉は、それが与えられる側の人々よりも、それを与える側の人々に、いっそう依っているように思えるが、われわれの予感によれば、善というものは、それをもつ人に固有な何かであり、その人から奪い取りがたいものだからである。さらにまた、[立派で行動力のある人々が]名誉を追求するのは、自分が善い人間であると確信したいためであるようにも思える。

(上巻 no.358)

稼ぎについては、こんなかんじです。

金儲けの生活とは、或る意味で[生活の必要によって] 強いられた生活なのであり、明らかに富は、探究されている善ではない。というのも、富は「有益なもの」であるから、つまり富は、ほかのもののため[になるという意味で「有益」なもの] だからである。

(上巻 no.375)

気をつけたいのは、アリストテレスは、「名誉」も「稼ぎ」も否定していないことです。

この2つは、あくまで、幸福へ至るためのプロセスであって、そこで立ち止まっていけない、と指摘するわけです。

こんなふうに、幸福につながりそうな要素をしりぞけつつ、「徳」の性質を、あきらかにしていきます。

ちなみに、はなしの前提として、「徳」とは、行動・活動ではなく、状態・性向だということです。

そのため、対象物として存在するわけではなく、その状態を維持して、活用することで、はじめて明らかになります。

訳者の渡辺さんは、こう解説します。

徳も悪徳も、活動の水準ではなく性向の水準の事柄を言う。アリストテレスは、 徳という「性向」を、まずそなえた人間が、その後も条件に恵まれて徳に見合う活動をし続けることが幸福だと考える。

(上巻 no.657)

つまり、行動なくして、徳は発揮されず、あらわれもしないわけです。

もろもろの徳は、生まれつき自然にわれわれに内在しているのでもなければ、自然に反してわれわれに内在化するのでもない。われわれは 徳 を受け入れるように自然に生まれついているのではあるが、しかしわれわれが現実に完全な者となるのは、習慣を通じてのことなのである。

(上巻 no.1140)

もろもろの 徳 をわれわれが得るのは、予め活動したからである。これは、ほかの技術の場合と同様である。学んで為すべき事柄であれば、われわれはその事柄を実際に為しながら学ぶのである。それゆえ、たとえば人は、家を[実際に] 建てることにより建築家になり、キタラを[実際に] 奏しながらキタラ奏者になる。これと同様に人は、正しいことを[実際に] 為しながら正義の人となり、節制あることを[実際に] 為しながら節制の人となり、勇気あることを[実際に] 為しながら勇気ある人となる。

(上巻 no.1148)

徳にもとづく行動は、運 / 不運に左右されない

では、徳にもとづく行動とは、具体的に、どんなものでしょうか。

そのひとつに、運 / 不運に左右されない、という特徴があります。

幸福には、運 / 不運がつきものです。

しかし、幸福をもたらす「徳にもとづく行動」は、運 / 不運に依存しません。

運に左右されるのは、なにもぜず、流れにまかせている状態で、「徳」を活用せず、行動していないわけです。

もしわれわれがさまざまな運不運[という結果] の後追いをするのなら、同じ人のことを「幸福な人だ」と言ったかと思えば「惨めな人だ」と言ったりすることが何度もあることになり、[それゆえ] 幸福な人とは「カメレオンのような人、土台がしっかりしていない人」にすぎないと言っていることになるだろうことは、明らかだからである。そうすると、運不運の後追いをすることはまったく間違いなのではないだろうか?

(上巻 no.861)

むしろ、不運に耐えつつ、徳にもとづいて行動をするときに、その人自身が、輝きだす ─ 。ひいては、幸福をもたらす、というわけです。

それは、仕事における技能・技術と同じです。

真に善き人や思慮深い人とは、あらゆる運不運に立派に耐え、与えられた状況のもとにそのつど最善のことを為す人だとわれわれは思っている。それはちょうど、すぐれた将軍がいまある軍隊をもっともうまく戦えるように用いたり、すぐれた革職人が与えられた革からもっともできの良い履き物を作ったりすることと同じである。そして、同じことがほかのあらゆる技術にも当てはまる。

(上巻 no.893)

徳 = 中間の状態

徳とは、〝つかってナンボ〟、行動して、はじめて明らかになる、と指摘します。

そして、もうひとつの特徴が、

中間の状態=中庸

という点 ─ 。

つまり、「バランスのいい状態」ということです。

この「中間の状態」という特性を軸に、さまざま「徳」の種類を考察していきます。

たとえば、「勇気」は、称賛される行動ですが、コレは「恐れ」と「自信」の中間にあたる行動になります。

「勇気」は恐れの程度と自信の大きさの程度における「中間性」である。度を越しているもののうち、恐れのなさの点で並外れているものには、名前がない(多くのものごとには、名前がないのである)。その一方で、自信の大きさの点で度を越すのは「向こう見ず」である。そして、恐れる点で度を越しつつ自信の点で不足なのは「臆病」である。

(上巻 no.1585)

反対に、「恐れ」が行きすぎれば「臆病」になり、「自信」が行きすぎれば「向こう見ず」(=無謀)になります。

こんなふうに、「徳」の特性・特徴のあり方を明らかにしつつ、それにもとづく行動が、どんなものかを検討していくわけです。

つづく、第3巻〜第9巻までは、ここにあげた

・幸福
・善
・徳

の考えを軸に、「節制」「愛」など、個別のテーマを考察していきます。

幸福の結論=自足的な状態

すでに1章で、幸福の定義を示しました。

ラスト10章で、もういちど「幸福」の定義・結論をくだします。

イチバンの特徴は、

・ほかに依存しないこと
・それ自体で成り立つこと

という点です。

〔……〕幸福はそれ自体で望ましい活動のひとつであって、ほかのものゆえに望ましい活動のひとつではないと考えなければならない。というのも、幸福とは何も欠けていない、自足的なものだからである。

(下巻 no.4601)

そのうえで、「善の追求」「徳(アレテー)にもとづく行動」こそが、それ自体で成り立つ状態=幸福、だと結論づけるわけです。

徳のもとづく活動=観想的な活動

では、「徳にもとづく行動」とは、何でしょうか。

それは、

観想的な活動

です。

観想的な活動とは、知性を活かした行動のことで、平たくいえば、

理論的な学問活動

のことです。

いまでいえば、実験用具などをつかわない、純粋な研究活動、といったところです。

なぜ「観想的な活動」か?

いくつか理由があります。

訳者・渡辺さんが、解説でまとめてくれています。

以下、6つです。

① 最善
② 連続的(≒ 継続できる)
③ 純粋な快楽をもたらす
④ 必要なもの(≒ コスト)が、かからない
⑤ それ自体が目的となりうる
⑥ 余暇を満たす

くわしくは、本書に目をとおしてみてください。

異論があるかもですが、どれもそれなりに納得できるものです。

たとえば、「⑥ 余暇を満たす」ですが、たいていの行動・活動は、〝なにかを達成するため〟になされます。

つまり、目的があるわけです。

しかし、うえにあげたとおり、幸福とは、ほかに依存しないこと=自足的な状態、をさします。

目的をともなう行動、余暇のための行動は、「幸福」とはよべないわけです。

なので、余暇を生みだす行動ではなく、余暇を満たすことが、幸福となります。

かれは、理論的探求=観想的な活動が、コレにあたるとするわけです。

ただし、幸福のためには「外的な恵み」も必要

こういうと、アタマをつかった活動だけをしていれば良いんだ、と思われそうです。

けれど、アリストテレスは、

幸福のためには「外的な恵み」も必要

だと指摘します。

ただし、人間であるからには、外的な恵みもまた必要となるのである。なぜなら、人間の自然本性は観想することのためには自足的ではなく、身体は健康でなければならないし、食物の世話やそのほかの世話もなされていなければならないからである。

(下巻 no.4858)

そのうえで、外的な恵み(=お金、名誉など)を追求だけではダメですよ、指摘するわけです。

たくさんあっても仕方ないし、たくさんなくても、「徳にもとづく行動」「幸福の状態」は、成し遂げられるからです。

しかしながら、〔……〕幸福であろうとする人が多くの大きな外的善を必要とするとは、考えるべきではない。なぜなら、そもそも自足も行為も、事柄の超過に依存するようなものではなく、人は大地と海を支配しなくとも、美しいことを為すことができるからである。というのも人は、ほどほどの外的善をもとにして徳に基づいた行為を為すこともできるからである。

(下巻 no.4860)

完全な愛=善にもとづく愛

以上が、「幸福」の最終結論ですが、個々のふるまいは、どうでしょう。

キホン、「幸福」「善」の定義をふまえつつ、最適な答えを導いていきます。

たとえば、愛については、「善にもとづく愛」こそが、完全だとします。

愛として完全なのは、善き人々のあいだ、つまり徳の点で類似の人々のあいだに成り立つ愛である。なぜならこの人々は、かれらが善き人であるかぎりにおいて、互いに同じ仕方で互いの善を願いあうのだが、ここでかれらが「善い」のは、かれら自身に基づいてのことだからである。

(下巻 no.2397)

つまり、善にもとづかない愛は、最適ではない、と主張するわけです。

これは、どんな相手でも同じです。親でも、恋人でも、友人でも。

とくに気にかけるべきは、友人にたいする愛です。

恋愛とは異なり、うまくすれば、死ぬまで継続できるからです。

〔……〕友人に対し、相手のために善を願う人々こそ、もっともすぐれた意味での友人だからである。というのも、ここでかれらがそのような人であるのは、その人自身のゆえにであって、付帯的にそうなのではないからである。それゆえ、かれらの愛は、かれらが善き人であるというそのかぎりにおいて持続してゆくのである。そして徳こそ、安定した持続性をもつものなのである。

(下巻 no.2403)

友人の数には「定め」がある

そのため、友人の数には「定め」があると指摘します。

善でもって接することができる人数は、限られるからです。

あらゆる人びとに、見返りなしに、カンケーをむすぶことが不可能です。

多くの人々にお返しをすることは大変で、苦しいことだからである。また、それだけでなく、人生はそうすることができるのに十分なほど、長くはないのである。自らの生活にとって十分な数以上の人々は、厄介であり、われわれが立派に生きることの妨げともなる。それゆえ、このようなことのどれも必要ではないのである。

(下巻 no.4003)

なので、友人の数は、最小限で良く、ひとり、ふたりと、善をベースにしたつながりをもっていれば、それだけで幸福にいたる、とします。

友人ができるだけ多くいることを求めるのは、おそらく適切でない。むしろ、ともに生きるのに十分な数の友人がいることを求めることが、適切なのである。

(下巻 no.4020)

多くの人々と徳に基づいて、またその人自身ゆえに友人であることは、可能ではない。この類いの少数の人々を見いだすだけでも、それで満足に値するのである。

(下巻 no.4031)

わたしも、この意見には賛成です。

たくさんの人たちに善良にふるまえるほど、わたしたちは「できて」いないからです。

倫理は、実践をともなう

ちなみに、すでに第1巻でのべられていますが、「幸福」「善の追求」「徳にもとづく行動」などの考え(=倫理)は、じっさいの行動(=実践)があって、はじめて明らかになります。

つまり、『ニコマコス倫理学』を読んでいれば、「幸せになれる」ことはないわけです。

では、具体的に、どう実践すれば良いのか。

その方法論が、つぎの『政治学』で、のべられます。

目をとおしてもいいですが、とにかく、

実践なくして、倫理ナシ

とは、アタマに入れておいたほうが良いです。

おわりに

哲学の歴史は、ソクラテス → プラトンからはじまります。

ふたりは、「善き生とはなにか」を探求し、そのさい「徳(アレテー)」の考えを軸にすえました。

アリストテレスは、本書『ニコマコス倫理学』で、この「徳」について、さらに深堀りし、あらためて「善き生」「幸福の状態」を、探求したわけです。

分量は多いですが、古代ギリシャのキホンを知るうえでは、避けては通れない作品です。

ぜひ、チェックしてみてください。

ではまた〜。