どうも、りきぞうです。
大学のころから、世界史に親しんできました。
大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?
きょうは、この問いに答えていきます。
答えは、つぎのとおり。
・オランダ領東インド会社
・海峡植民地
・マレー連合州
・ビルマ戦争
・阮朝
・清仏戦争
・フランス領インドネシア連邦
・ベトナムは天津条約によりフランスの保護国となった
この記事では、つぎの本を参考にしました。
近代以降、東南アジアの植民地化が本格的に始まっていきます。
以下、
- インドネシア
- フィリピン
- マレー半島
- ビルマ
- ベトナム
- タイ
の順に、植民地化の流れをみていきましょう。
目次
東南アジアの植民地化① ─ インドネシア

インドネシアでは、それまでオランダが交易の実権をにぎっていました。
さらにオランダは香辛料貿易が衰退したことで、インドネシアの領土獲得したうえで、コーヒーや砂糖などの商品作物の栽培を直接おこないます。
くわえて、名目上インドネシアをおさめていたマラタム王国を滅ぼし、ジャワ島を制圧します(18世紀なかば)。
ジャワ戦争
そんななか、オランダの経済支配にたいして民衆反乱がおこり、戦争にまで発展します。
これがジャワ戦争です。
オランダは鎮圧には成功するものの、軍事費の増大から財政難におちいります。
そこで反乱鎮圧後、商品作物栽培をよりいっそうすすめていくことになります。そのさいに採用してされたしくみを「強制栽培制度」とよびます。
これより現地住民は、耕地の約 1/5 に、
・コーヒー
・藍
の作付けを命じられ、きわめて安い価格でオランダに売却させられました。
オランダはそれらの商品を値段をつりあげて世界各国に輸出し、いっぽうほとんど利益のあがらないインドネシア農民は、ますます貧困化していくことになります。
またその約50年後には、スマトラ西北部をおさめるアチュ王国でも反乱がおこります(アチュ戦争)。
オランダはここでも強い軍事力を発揮します。反乱グループをおさえ、アチュ王国まで滅ぼします。
ここにオランダ領東インドが完成し、以後、第二次世界大戦直後までインドネシアを統治していくことになります。
東南アジアの植民地化② ─ フィリピン

フィリピンは16世紀後半からスペイン領となり、マニラを拠点に海洋交易がさかんにおこわれていました。そのさいカトリックの布教がなされています。
攻撃の相手はおもに南米の国々でした。しかしメキシコの独立をきっかけに、太平洋を横断するアカプルコ貿易が停滞してしまいます。同時に中国との中継貿易による利益も失ってしまいます。
そこでスペインは経営者を中心にマニラを開港して、自由貿易をすすめていきます。同時に商業貿易からプランテーションによる利益獲得がはかられ、商品作物の栽培が大規模におこなわれます。
作られた商品は、
・マニア麻
・タバコ
などでした。
プランテーションへの転換はスペイン経営者を中心とした大土地所有者に有利にはたらき、大土地所有制が発展します。
その後アメリカとスペインの間で戦争がおこると、そのままフィリピンはアメリカ領に変更されます。
東南アジアの植民地化③ ─ マレー半島

マレー半島ではイギリスがマラッカ海峡の港市を獲得していました。そのなかで海峡植民地が成立します。
これは、
・マラッカ
・シンガポール
のエリアから構成され、イギリス=オランダ協定で「マラッカ海峡を協会とする」という確約からできあがったものです。
これにより、
・マラッカ海峡の南部 → オランダ領
と決まります。
しかし協定の約50年後には、イギリスは領土支配に乗り出し、内陸部(南部)に領地を広げていきます。
つづけてその約20年後にはマレー連合州が成立します。これはマレー半島の南部4州で構成されるエリアで、イギリスの保護領でした。
そこでは中国人労働者による錫鉱山がおなれ、同じくインド人労働者をつかったゴム製造のプランテーションが営まれていました。
当然ながら、経営のトップにはイギリス人がつき、中国人やインド人を酷使しながら、莫大な利益をあげていました。
東南アジアの植民地化④ ─ ビルマ

ヨーロッパによる植民地化が始まる前までは、ビルマはコンバウン朝によって統一がはかられていました。
王朝はそれまでのおさめていたアユタヤ朝を滅ぼし、領土進出をねらう清王朝までも撃退しています。
しかし統治の後半期、東北インドのアッサムへの侵略をきっかけとするビルマ戦争がおこります。
当時アッサムはイギリスの支配下にありました。抵抗したイギリスはビルマを打ちやぶり、第3回ビルマ戦争の勝利により、そのままインド帝国に併合します。
その後、領地を得たイギリスは、ビルマ南部のデルタ地帯を開発します。そこではコメなど商品作物用のプランテーションをきずき、世界各地に輸出したうえで、大きな利益を獲得します。
東南アジアの植民地化⑤ ─ ベトナム

ベトナムは阮王朝がおさめていました。
そもそも阮朝はフランス人宣教師ピニューの軍事支援をうけて、阮福暎がたてた国です。そのため建国当初から、ベトナムとフランスとのつながりは、たいへん根づよいものがありました。
そののち阮朝はベトナムを統一し、清王朝に朝貢したうえで「南越国」とよばれることになります。都はユエにおきました。
以降ベトナムとフランスの関係は良好でしたか、ナポレオン3世の時代になると状況は一変します。
彼はフランス人宣教師を迫害しているとして、本国から遠征軍を派遣します。勝利したフランスはサイゴン条約をむすび、
・ベトナム南部の割譲
といった確約を取り付けることになります。
さらにその翌年には隣国カンボジアに進出し、保護国化することに成功します。
清仏戦争
ヨーロッパの圧力にベトナムの周辺国が危機を抱くなか、フランスはベトナム北部に拠点をおく劉永福に軍隊をおくりこみます(清仏戦争)。
そのさいの口実は、彼がひきいる黒旗軍がフランスにたいして反抗を企てている、といったものでした。
なかば一方的にしかけた戦争に勝利したフランスはユエ条約をむすんだうえで、ベトナム北部&中部を獲得することになります。
いっぽうでベトナムの宗主権を主張する清王朝にたいしては、清仏戦争後の天津条約でフランスの保護国化を強制的に認めさせます。
これによりベトナムとカンボジアを植民地化したフランスはフランス領インドネシア連邦を成立させ、両エリアでの実権をにぎることになります。
総督府はハノイにおかれ、のちにはラオスまで編入させられています。
東南アジアの植民地化⑥ ─ タイ

さいごにタイにかんしては、東南アジア諸国のなかで唯一、ヨーロッパからの独立を保つことができました。
タイをおさめていたのはラタナコーシン王朝で、都はバンコクにおされていました。
ヨーロッパから外圧がつよまるなかで、ときの君主ラーマー4世は開国政策をおこないます。
同時に、国内では近代化政策をおしすすめ、つづくラーマ5世(チュラロンコン)のときには、本格的な富国強兵策を実施します。
これによりヨーロッパから一方的は属国化をのがれ、以後イギリスとフランスの緩衝地帯としての地位をかためていきます。
おわりに
東南アジアの植民地化をみてきました。
まとめると、こんなかんじです。
・オランダ領東インド会社
・海峡植民地
・マレー連合州
・ビルマ戦争
・阮朝
・清仏戦争
・フランス領インドネシア連邦
・ベトナムは天津条約によりフランスの保護国となった
この記事が、東南アジアの植民地化を理解するさいのヒントになれば、うれしいです。
では、また。



