どうも、りきぞうです。
大学のころから、世界史に親しんできました。
大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?
きょうは、この問いに答えていきます。
答えは、つぎのとおり。
・駅伝制
・交鈔
・授時暦
・元曲
・チベット仏教
・紅巾の乱
・プラノ=カルピニ
・ルブルック
・モンテ=コルヴィノ
・マルコ=ポーロ
・イブン=バットゥータ
この記事では、つぎの本を参考にしました。
モンゴル帝国がユーラシア大陸全域を支配したあと、国家の中心はクビライがたてた元に移行しました。
以下、
- 内政
- 経済
- 人の移動
- 文化
の側面から、元王朝のなかみについてみていきます。
目次
元王朝の歴史① ─ 内政

モンゴル人がたてた国家のため、かれらが統治の中核を担っていました。
中央/地方の高官ともにモンゴル人が独占します。
いっぽうで、財務官僚など実務の役職については「色目人」とよばれる中央アジア&西アジアの人たちが担当し、モンゴル人からもたいへん重宝されていました。
また、漢族&契丹&女真族などの漢人、旧南宋の漢族などの南人も、実力に合わせて登用されていました。
なお、それまで宋王朝で重視されていた科挙は廃止され、官学だった儒学も重要視されなくなっていきます。
元王朝の歴史② ─ 経済

まず交易路については、陸上では駅伝制が整備され、海上でも新運河の建設が積極的におこなわれます。
それにより江南地域の富や資源が華北地域に運ばれるようになり、両地域の中継地点だった首都大都は大きく発展します。
また外国との海洋交易もさかんにおこなわれ、貿易港のあった、
・泉州
・広州
などの地域は、大いに繁栄します。
さらに元王朝では、より交易が活発になるよう、銀を担保にした交鈔(=紙幣)を発行します。
元王朝の歴史③ ─ 人の移動

元王朝を中軸にモンゴル帝国がユーラシア一帯をおさめたことで、国境による城壁がなくなり、人の移動も活発になります。
以下、
- プラノ=カルピニ
- ルブルック
- モンテ=コルヴィノ
- マルコ=ポーロ
- イブン=バットゥータ
の人物にスポットをあてて、人の動きをより具体的にみていきましょう。
プラノ=カルピニ
イタリアのヴェネチア出身である彼は、ローマ教皇の使節として、ユーラシア大陸経由で、モンゴルの都カラコルムを訪問します。
そこでは、各地の国々からさまざまな民族が訪ねてきて、そのようすをカルピニは、驚きをもって報告書に記述しています。
ルブルック
フランスのフランシスコ会修道士だった彼は、フランス王ルイ9世の命をうけて、カルピニと同じくカラコルムを訪ねます。
同じく多種多様な民族のようすに驚き、モンゴル帝国の権勢に、脅威を感じています。
モンテ=コルヴィノ
イタリア出身のカトリック司祭だった彼は、ローマ教皇の命で、元の首都である大都を訪問します。
そのさい、ヨーロッパ人としては初めてカトリックを伝え、以降も現地にとどまり、布教活動にはげみます。
マルコ=ポーロ
ヴェネチア商人だった彼は、商船で大都にわたり、クビライにつかえます。
ヴェネチアに戻ったあとは、『世界の記述』いわゆる『東方見聞録』を口述で書き記します。
イブン=バットゥータ
モロッコ出身の旅行家である彼は、アフリカ → アラビア半島 → ユーラシア大陸をわたりあるき、各地のようすを『旅行記』として書き記します。
イブン=バットゥータの場合は、ムスリム商人ということあり、古くから構築されていたイスラーム・ネットワークが、彼の大移動に貢献しました。
いっぽうでモンゴル帝国によるユーラシア大陸の安定した統治があったからこそ、イブン=バットゥータは、命の危険にさらされることなく旅行できた、ともいえます。
元王朝の歴史④ ─ 文化

人の移動が活性化することで、モンゴル帝国では文化も大きく発展しました。
以下、
- 科学
- 文字
- 工芸
- 絵画
- 文学
の足面からみていきましょう。
科学
科学では、ムスリム商人のさかんな交流から、イスラームの天文学が大いに発達します。
元王朝につかえた天文学者の郭守敬は、授時暦とよばれる暦をあみだし、元代の時間感覚に大きな影響をおよぼしました。
文字
もともと文字文化のなかったモンゴル族ですが、元王朝以降、ウイグル文字を利用して、オリジナルのモンゴル語を作成します。
いっぽうでウイグルとは良好な関係をきずき、かれらが信仰するチベット仏教を手厚く保護します。
さらに相手の君主であるパスパに、パスパ文字を作成させたりしています。
工芸
工芸では、陶磁器の製作がさかんにおこなわれました。
西方よりコバルトがつたわり、染付のバリエーションが一気に増えるようになりました。
絵画
中国絵画が、ユーラシア大陸の交易路から西アジアのイル=ハン国に伝わり、中東地域では一時ブームとなりました。
その後、中国絵画は、イスラーム世界やヨーロッパ諸国に伝わり、ミニチュアール芸術に影響をあたえます。
文学
それまでの南朝文化や唐文化のように気品のある作品は生まれませんでしたが、「元曲」とよばれる雑劇が、人びとのあいだで、たいへん人気となりました。
『西廂記』『琵琶記』などの演目は、さかんに演じられ民衆をぞんぶんに楽しませました。
元王朝の歴史⑤ ─ 衰退と滅亡

約150年つづいた元王朝ですが、ときが経つにつれて、じょじょに衰退していきます。
おもな要因は、つぎの4つです。
・チベット仏教信仰による宮廷の浪費
・寒冷化とペストの流行
・交鈔の乱発によるインフレ
これら要因がかさなって、元王朝の権威はだんだんと衰えていきます。
そのなかから、農民反乱である紅巾の乱がおこります。反乱の担い手は、弥勒信仰をとなえる白蓮教徒たちでした。
紅巾の乱は鎮圧したものの、その2年後に「反モンゴル」をかかげる明軍が反乱をおこします。
これには元朝もおさえることができず、結果、モンゴル系の人たちは、もといたモンゴル高原への撤退をよぎなくされます。
高原に帰ったのち、新たに北元を建国します。
おわりに
元王朝の歴史をみてきました。
まとめると、こんなかんじです。
・駅伝制
・交鈔
・授時暦
・元曲
・チベット仏教
・紅巾の乱
・プラノ=カルピニ
・ルブルック
・モンテ=コルヴィノ
・マルコ=ポーロ
・イブン=バットゥータ
この記事が、元王朝の歴史を理解するさいのヒントになれば、うれしいです。
では、また。