唐の歴史&まとめ ─ 隋・仏教・李世民・則天武后・玄宗

どうも、りきぞうです。

大学のころから、世界史に親しんできました。

大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。

・唐王朝について知りたい
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?

きょうは、この問いに答えていきます。

答えは、つぎのとおり。

キーワード
・三省六部
・均田制/府兵制/租調庸制
・六都護府
・羈縻政策
・募兵制
・節度使
・安史の乱
・藩鎮
・荘園
・両税法
・黄巣の乱
重要人物
・李淵(高祖)
・李世民(太宗)
・則天武后
・玄宗
・朱全忠
ポイント
・唐の前期は、隋の均田制/府兵制/租調庸制をひきつぎ、安定した統治運営のもと、世界帝国のなっていった
・唐の後期は、安史の乱をきっかけに節度使が分立し、荘園制・募兵制・両税法を実施しながら、なんとか帝国を存続させた

この記事では、つぎの本を参考にしました。

唐王朝の形成

李世民(太宗)

隋の滅亡により中国一帯が混乱するなか、地方軍人である李淵が権力争いを勝ちぬき、地域全体をおさめます。

彼は高祖として即位し、みずからの国をたてます。

これが唐王朝です。都は長安(現 西安)におきました。

つづいて、むすこの李世民(太宗)が即位し、中国統一を果たします。

彼の治世はすばらしく、のちに「貞観の治」とよばれるほど、平和な世の中がつづきました。

さらに、高宗(3代)のときには、唐王朝の領域は最大となります。

・突厥 → 服属化
・西突厥 → 討伐
・百済&高句麗 → 討伐

これらの外交政策により、唐の版図はもっとも大きくなります。

いっぽう内政の改良もすすめ、さまざまな施策をおこないます。

具体的には、つぎの6つです。

  • 中央官制の整備
  • 地方統治の実施
  • 官吏登用法の改良
  • 律令国家体制の普及
  • 三本柱の強化
  • 異民族の統治

それぞれかんたんにふれていきます。

中央官制の整備

きほん隋の制度をひきついだ唐王朝ですが、中央の官僚制は大幅に変更しました。

まず中心に三省をおきました。三省は、

・中書省(勅令の文書作成)
・門下省(施策の審議)
・尚書省(施策の実行)

の3つの役職から構成されます。

さらに尚書省を補佐するかたちで六部がおかれます。六部は、

・吏
・戸
・礼
・兵
・刑
・工

から成り、すべて尚書省の直属で、詔勅(皇帝指令)の実行をサポートします。

さらに三省六部とはべつに、官吏を監察する御史台がおかれました。

地方統治の実施

地方統治については、州県制を採用します。

これは全国を道・州・県に分けて、ランク別に統治する方法です。

官吏登用法の改良

きほん官吏の登用については、隋王朝でなされた科挙によるやり方を採用しました。

唐王朝はさらにこれを改良して、礼部の試験のあとにも吏部の任用試験をおこないました。

また高官の子弟をとりたてる蔭位の制もおき、結果これは貴族制の維持につながっていきました。

律令国家体制の普及

隋王朝でも律令制はしかれていましたが、唐王朝ではより厳格に施行します。

・律(刑法)
・令(行政法)
・格(法改正)
・式(施行規則)

のそれぞれを細かく規定し、全国各地に普及させていきます。

三本柱の強化

隋王朝の軍事と財政は、

・均田制
・府兵制
・租調庸制

の三本柱から成り立っていました。

きほん唐王朝もこれら3つをひきつぎ、強化します。

また三本柱にくわえて、地方官庁での労役を課す雑徭もより厳格にして強化しています。

異民族の統治

漢人以外の異民族の統治にかんしては、「六都護府」とよばれる地方官庁をもうけ、それぞれのエリアを支配下におきました。

さらに「羈縻政策」とよばれた地方統治策をおこない、中央から派遣する都護(役人)のもと、部族長を地方長官に任命する、間接統治策をとりました。

唐王朝の発展と変化

則天武后

内政&外征ともに安定するなかで、唐王朝の宮廷では権力構造に変化が生じます。

高宗(3代)の皇后である武則天が、帝位につき皇帝として即位します。「則天武后」と名のり、中国史ではじめて女帝として君臨します。

さらに国号を唐から「周」に変えて、皇帝みずから王朝をひきいていきます。

ただし、彼女の暴政で中国は混乱し衰退するかと思いきや、則天武后の政治運営はたいへんうまくいきます。彼女は科挙官僚を積極的に採用し、門閥(家柄)にたよらない実力主義の政治力で、安定した統治をおこないます。

とはいえ、彼女亡きあとは、ふたたび女帝として権勢をふるおうとする女性があらわれるものの、初代高祖の血をひく人物が反旗をひるがえし、結果、皇帝一族に権限がもどってきます。

国号も、周からふたたび「唐」にもどされました。

玄宗の前半期 ─ 開元の治

高祖一族の権力復興をなしとげたのが、李氏の玄宗でした。

彼の前半期は、たいへん国がさかえ、のちに「開元の治」として高く評価されています。

ただし商業が発展したことで、人びとのあいだで貧富の差が広がり、結果、王朝財政を支えていた均田制が崩壊します。

それにともない租調庸制も崩れ、軍事について唐王朝は募兵性を実施して、傭兵にたよることになります。

さらに地方では、中央の軍事力低下から、節度使とよばれる地方軍人をおき、辺境の防衛を任せることになります。

のちにかれら節度使が独自に力をつけ、王朝中枢に反旗をひるがえすことになります。

玄宗の後半期 ─ 楊貴妃

玄宗の前半期は、優れた治世を発揮しましたが、後半期は、彼自身が楊貴妃との恋愛におぼれ、政治運営がおろそかになっていきます。

そんなすきをついて、玄宗&楊貴妃に寵愛にされていた節度使の安禄山が反乱をおこし、王朝の権威を動揺させます。

安禄山は、仲間の史思明と共謀し、長安の町を攻めこみ、暴虐のかぎりを尽くします。

かれらの反乱を「安史の乱」とよびます。

唐王朝はウイグル族と別派の節度使の力をかりて、なんとか反乱の鎮圧に成功します。

安史の乱の影響

しかし、安史の乱により唐の社会は大きく変化しました。

まず節度使が辺境だけでなく、内地にもおかれるようになり、それにともない、かれらは藩鎮として権勢をふるうようになります。

その結果、それぞれの軍人が権力争いをくりかえす群雄割拠の世の中へと変わっていきます。

また、安史の乱を鎮圧するさいにウイグルなどの遊牧民をたよったことで、吐蕃などの異民族がぞくぞくと唐へ侵入するようになります。

さらに、軍事費の増大から財政がひっぱくし、国の大黒柱だった律令国家体制が崩壊します。

結果、均田制は荘園が広がることで、地主の権限が高まり佃戸制へと移行します。

また府兵制も崩れ、軍事については募兵制が中心となります。

さらに租税のしくみについても、租調庸制は完全に崩壊し、財政立て直しのために両税法のしくみが採用されます。

両税法とは、宰相楊炎によってとられた施策で、

人びとに夏と秋の2回、土地などの財産に応じて納税をさせるしくみ

のことです。

原則、銭による納税で、そのために民衆のあいだで貨幣経済が広がりました。結果、富裕層が生まれるいっぽうで、それまでの小農民たちは没落し、各地で農民反乱が多発するようになりました。

唐王朝の衰退

朱全忠

安史の乱以後、唐王朝はさまざまな改革に乗りだしますが、なかなかうまくいきません。

むしろ、ときが経つにつれて、財政はますますひっぱくし、重い税に耐えきれない民衆たちが、つぎつぎに反乱をくりかえすようになります。

そのなかでも黄巣の乱はたいへん規模の大きいものでした。

これは塩の密売商人だった王仙芝&黄巣による民衆反乱で、王朝の塩専売にたいする反抗でした。

反乱グループは(四川以外の)中国全域を荒らしまわり、唐王朝の権威を失墜させます。

結果、黄巣の乱をきっかけに、節度使の朱全忠が台頭し、唐王朝を滅ぼすことになります。

滅亡させたのち、朱全忠は後梁を建国し、中華統一を果たそうとします。

おわりに

唐王朝をみてきました。

まとめると、こんなかんじです。

キーワード
・三省六部
・均田制/府兵制/租調庸制
・六都護府
・羈縻政策
・募兵制
・節度使
・安史の乱
・藩鎮
・荘園
・両税法
・黄巣の乱
重要人物
・李淵(高祖)
・李世民(太宗)
・則天武后
・玄宗
・朱全忠
ポイント
・唐の前期は、隋の均田制/府兵制/租調庸制をひきつぎ、安定した統治運営のもと、世界帝国のなっていった
・唐の後期は、安史の乱をきっかけに節度使が分立し、荘園制・募兵制・両税法を実施しながら、なんとか帝国を存続させた

この記事が、唐王朝を理解するさいのヒントになれば、うれしいです。

では、また。