どうも、りきぞうです。
大学のころから、世界史に親しんできました。
大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?
きょうは、この問いに答えていきます。
答えは、つぎのとおり。
・プロセイン=フランス戦争(普仏戦争)
・パリ=コミューン
この記事では、つぎの本を参考にしました。
目次
フランス第二帝政と第三共和政① ─ ナポレオン3世

第二共和政のとき、大統領となったルイ=ナポレオンはクーデターをおこし、議会の王党派と共和派を追放します。
そののち国民投票をおこない、圧倒的な支持をうけてナポレオン3世として皇帝に即位します。
ここに第二帝政が成立します。
以下、ナポレオン3世のおこなった政策を、内政/外交の面からみていきましょう。
内政
内政では、
・労働者
・農民
の階層を調整しながら「ボナパルティズム」とよばれる独裁政治をすすめていきます。
すべての階層から人気を得るため、ナポレオン3世は、
・パリ万博の開催
など、国民が喜びそうなプランやイベントをつきつぎ遂行していきます。
さらに、
・カトリック保護(聖職者向け)
・労働者保護(平民向け)
など、すべての階層が恩恵を得るような政策を同時並行で実施していきます。
なお、このときおこなったパリ改造は、セーヌ県知事のオスマン男爵によって実施され、道路拡張や上下水道の整備など、これをきっかけにパリの原型がつくられました。
外交
人気取りのため、内政にはげむナポレオン3世ですが、外征も積極的におこないます。
まとめると、つぎのとおりです。
→ イギリスと協力して、オスマン帝国側を支援
アロー戦争への介入(ロシア vs 清)
→ イギリスと協力して清国に出兵し、北京条約を締結
インドシナ出兵
→ サイゴン条約でコーチシナ(東部)を獲得
イタリア統一戦争(イタリア vs オーストリア)への参戦
→ プロンビエールの密約でサルディーニャ王国を支援
メキシコ出兵
→ 外債支払いを理由に出兵し、オーストリア皇帝親族のマクシミアンを皇帝に擁立するも失敗
プロセイン=フランス戦争
→ スダンで捕虜
みてわかるとおりメキシコ出兵と普仏戦争での敗北は、ナポレオン3世にとって致命的でした。ふたつの外交政策の失敗により、ナポレオン3世は一気にその権勢を落としていきます。
フランス第二帝政と第三共和政② ─ パリ=コミューン

普仏戦争でパリが陥落し、その後ドイツとのあいだで休戦協定がむすばれます。
捕虜になったナポレオン3世はフランスから追放され、すでに第二帝政は崩壊していました。
代わってティエールをトップとするブルジョワ共和派が主導権をにぎり、臨時政府がたてられます。
ここに第三共和政が成立します。
臨時政府はドイツを相手に賠償交渉にのぞみ、その結果、
・賠償金の支払い
が約束されました。
しかしこの決定に屈辱を感じたパリ市民や社会主義者たちは、パリ=コミューンを設立しフランス政府に反乱をおこします(学術上、パリ=コミューンこそが史上初の市民&労働者から成る自治政府とされています)。
とはいえ武力におとるパリ=コミューンは、臨時政府とドイツの連合軍により鎮圧され、コミューン自体も崩壊します。
このときの鎮圧は「血の一週間」とよばれ、たくさんの被害者を出しました。
コミューン鎮圧ののち、臨時政府はあらためて会議を開き、第三共和国憲法を制定します。
憲法では、
・三権分立の確保
・大統領制の実施
の3点がはっきりと明記されました。
とはいえ、いざ共和政が始まってみると小さい政党が分立し、なかなか意見がまとまりません。
〝なにも決まらない〟議会にいらだつ民衆は強い政権をもとめるようになります。そのためフランスでは一時、右翼や軍部の台頭が目立つようになっていきます。
おわりに
フランス第二帝政と第三共和政をみてきました。
まとめると、こんなかんじです。
・プロセイン=フランス戦争(普仏戦争)
・パリ=コミューン
この記事が、フランス第二帝政と第三共和政を理解するさいのヒントになれば、うれしいです。
では、また。




