ローマ=カトリック教会 ─ 特徴・ギリシア正教会・分裂・総本山【世界史】

どうも、りきぞうです。

大学のころから、世界史に親しんできました。

大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。

・中世初期のローマカトリック教会について知りたい
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?

きょうは、この問いに答えていきます。

答えは、つぎのとおり。

キーワード
・五本山
・コンスタンティノープル教会
・首位権
・ゲルマン布教
・修道院運動
・モンテ=カシノ
重要人物
・グレゴリウス1世
・ベネディクトゥス
ポイント
・五本山のひとつだったローマカトリック教会は、グレゴリウス1世による布教や、修道院運動のもと、大きく発展していった

この記事では、つぎの本を参考にしました。

以下、目次に沿って、みていきます。

ローマ=カトリック教会の形成

ローマ=カトリック教会 サン・ピエトロ大聖堂(出典:wiki

ローマ帝国がキリスト教を国教にしたころ、領内には大きな教会が5つありました。

5つの教会は五本山とよばれていました。

すべてあげると、つぎのとおり。

・ローマ
・コンスタンティノープル
・アンティオキア
・イェルサレム
・アレクサンドリア

このうちローマ教会は、ペテロが建てたとされ、彼の後継を自任し、教会のトップとして教皇を名のりました。

いっぽうコンスタンティノープル教会は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の皇帝が支える体制をとります。

以降、キリスト教の権威と権限をめぐり、ローマ教皇とビザンツ皇帝は、たびたび対立するようになります。

ローマ=カトリックの進展

教皇レオ1世とアッティラ王の会見(作 ラファエロ)(出典:wiki

ふたつの教会が争っているころ、あたり一帯では、ゲルマン人の移動がくりかえされていました。

そのなかでも、東ローマ帝国に支えられたコンスタンティノープル教会は、なんとかゲルマン人の侵攻をまぬがれ、安全をたもっていました。

いっぽうローマ教会のある西ローマ帝国は、たびたびゲルマン人の侵攻に合い、くわえて大移動の原因でもあったフン人にも、侵略されそうになります。

そんなフン人の族長アッティラ王を説得したのが、ローマ教皇レオ1世でした。暴力にうったえず、話し合いでもって、アッティラの侵攻をくいとめます。

この功績により、レオ1世は首位権を主張します。首位権とは、

すべての司教&信徒にたいしておよぼす完全で普遍的な権威

のことです。

レオ1世は首位権を主張することで、ローマ=カトリック教会の権威を高めようとしました。

しかしその後、西ローマ帝国が滅亡すると、ローマ教会は後ろ盾をなくし、唯一の皇帝となったビザンツ皇帝に服従することになります。

以降、コンスタンティノープル教会が、ローマ教会よりも優勢になっていきます。

ローマ=カトリックの発展

ベネディクト修道会(出典:wiki

そののち100年経って、ローマ=カトリック教会は、権威の向上にはげみます。

ときの教皇グレゴリウス1世は、民族移動がおちついたゲルマン部族にたいして、布教活動をはじめます。

派遣された宣教師は、ガリア一帯をめぐり、さいごはブリタニアにまでたどりつきました。

かたちのうえでは、アングロ=サクソン人にまでローマ=カトリックの教えが広まったわけです。

修道院運動

布教活動において大きな役割をはたしたのが、修道院運動でした。

もともと修道院は、ベネディクトゥスが、中部イタリアのモンテ=カシノで創設したものです。

そこで彼は「清貧・貞潔・服従」を中心とした戒律(=聖ベネディクトゥス戒律)を制定します。

そのうえで「祈れ、働け」をモットーに、みずから経済的に自立した修道院のお手本となっていきました。

ベネディクトゥス修道院がしめした模範がひろまり、ゲルマン部族が住む各地に、キリスト教が広まっていくことになります。

おわりに

中世初期のローマ=カトリック教会についてみてきました。

まとめると、こんなかんじです。

キーワード
・五本山
・コンスタンティノープル教会
・首位権
・ゲルマン布教
・修道院運動
・モンテ=カシノ
重要人物
・グレゴリウス1世
・ベネディクトゥス
ポイント
・五本山のひとつだったローマカトリック教会は、グレゴリウス1世による布教や、修道院運動のもと、大きく発展していった

この記事が、ローマ=カトリック教会を理解するさいの参考になれば、うれしいです。

では、また。