どうも、りきぞうです。
大学のころから、哲学に親しんできました。
大学院時代は、本格的に人文書・哲学書にあたってきました。
アウグスティヌスの思想にも、ふれてきました。
同じように、知りたいなぁと思っている人もいるかと。
とはいえ、
・アウグスティヌス思想のポイントは?
・かれの残した名言は?
─ こんな悩み&疑問をいだく人も多いはず。
そこで、この記事では、アウグスティヌスの考えをみていきたいと思います。
先に結論をいうと、つぎのとおり。
りきぞう
・「時間」「愛」について、独自の思想を展開した
・愛について「それぞれの重さによって動かされ、それぞれの場所をもとめるのです。」などの名言を残した
以下、目次にそって、[著者 → ポイント → 名言]の順でみていきます。
…
ちなみに、参考にしたアウグスティヌスの本は、こちら。
引用ページも、本書によります。
目次
著者
アウグスティヌスは、BC.354年〜430年に生きた人です。
北アフリカ・タガステの神学者・哲学者です。
383年にローマに渡り、387年に洗礼を受け、キリスト教徒になりました。
ストア派に影響を受けつつ、プラトン思想とキリスト教思想の統合をはかります。
「自由意志」について考察をおこない、西洋における「自由思想」に大きな影響をあたえました。
主著『告白』では、青年時代〜キリスト教徒になるまでの過程を述べていきます。
「窃盗」「奔放な性」など、青年期での罪深い行為を、生々しく記していく ─ 。
その経験・体験をベースに、
・時間
・愛
について語っていきます。
アウグスティヌスの思想を知るには、まずは『告白』を手にとるのが、おすすめです。
ポイント ─ 時間
さまざまな考えを示したアウグスティヌス ─ 。
ここでは、『告白』にスポットをあて、みていきます。
ポイントは「時間」です。
カンケツにまとめると、つぎのとおり。
図解説明
時間には、
・現在のコトの現在
・未来のコトの現在
の3つがある。
それぞれ、人間の認識能力である、
直観 → 現在のコトの現在
期待 → 未来のコトの現在
に、つよく結びつき、派生している。
このように、時間とは意識とともにある。
人間が、神によって創造されたことではじめて生まれたのが時間である。
なので、神に創造された存在がなければ時間もありえない。
神なくして時間を語るのは、冒涜ですらある。

ひとこと
神(GOD)への信仰がつよいので、キリスト教徒以外のひとからすると、ピンとこないかもです。
それでも、〝神へのバイアス〟をとりのぞけば、アウグスティヌスの「時間論」は、じゅうぶん納得がいきます。
じじつ、現象学者「フッサール」は、この箇所に注目し、時間論を展開しています。
いっぽう『告白』13章では、「愛」についても論じています。
こちらも近年、哲学者「アレント」に影響をあたえた箇所です。
本書は、アウグスティヌスの「懺悔録」以上に、多様な読み方ができる哲学書にしあがっています。
名言
つぎに、アウグスティヌスの名言をあげていきます。
時間の3種類
〔……〕未来もなく、過去もない。厳密は意味では、過去、現在、未来という3つの時があるともいえない。おそらく厳密にはこういうべきだろう。「3つの時がある。過去についての現在、現在についての現在、未来についての現在」。(p.52)
─ 『告白』11巻 14〜28章
「3種類の時間」について述べた箇所です。
アウグスティヌスは、厳密には「過去」「未来」はなく、あるのは「現在」のみとします。
というのも、よくよく考えると、
・未来=「まだない」
だからです。
「ない」ことに、かわりありません。
かりに「ある」とすれば、「現在」においてのみです。
では、なにが「過去」「未来」をもたらすのか?
正確にいえば、過去/現在/未来の区別をもたらすのか?
ポイントでみたように、人間の認識能力である「記憶/直観/期待」です。
それぞれの能力にあわせて、「3種類の時」が生まれます。
過去についての現在とは「記憶」であり、現在についての現在とは「直観」であり、未来についての現在とは「期待」です。もしこういうことが許されるならば、たしかにわたしは3つの時をみますし、それどころか「3つの時がある」ということをも承認いたします。(p.52)
─ 『告白』11巻 14〜28章
つまり、過去&未来は、認識能力をつかって、現在を〝引き伸ばしたもの〟であり、厳密には存在しない。
別の言い方をすれば、時間とは精神の延長だと言えます。
〔……〕わたしにはこう思われます。「時間とは延長だ。それ以外の何ものでもない」と。ではいったい、いかなるものの延長なのでしょうか。わたしは知りません。だが、もし精神そのものの延長ではないとしたら不思議です。(p.67)
─ 『告白』11巻 26章
この議論の展開は、かなり納得できます。
いっぽうで、「過去」「未来」については、人間の認識が生みだした産物で、〝錯覚〟だともいえます。
過去も未来もない。
遠い過去 or 近い未来など、〝長さ〟をつけくわえても、それは記憶 or 期待の〝増減〟にすぎない。
ですから長いのは未来の時ではありません。未来の時は「ない」。長い未来とは、未来についての「長い期待」にほかなりません。長いのは過去の時でもありません。過去の時も「ない」。長い過去とは、過去についての「長い記憶」にほかなりません。(p.75)
─ 『告白』11巻 28章
ここに安らぎをみるか、むなしさをみるかは、読者によって異なりそうです。
愛=重さ
わたしの重さは、わたしの愛です。わたしは愛によってどこにでも愛がはこぶところに、はこばれてゆきます。あなたの賜物によって火がつけられ、上にはこばれてゆきます。(p.195)
─ 『告白』13巻 9章
このあたりは、キリスト教徒らしい発想ですね。
アウグスティヌスは、わたしたちの神への愛を「重さ」ととらえます。
そのうえで、上方にむかえば「神を愛する方向」へのぼり、下方にむかえば「自己を愛する方向」へ流れると考える。
もちろん、アウグスティヌスは、上方への愛=神への愛をめざします。
けれど、おもしろいのは、どんな愛でも〝置かれるにふさわしい場所〟があること。
神への愛/自己への愛 ─ どちらが優れているかは、いったん置き、〝ふさわしい場所〟におさまらないと、愛は不安で、落ち着かないものになる。
重さのある物体と同じように、重さのある愛も、不安定なまま、あたりをうろつくことになります。
物体は自分の重さによって、自分の場所におもむこうとします。重さはかならずしも下にむかうとはかぎりません。いつも自分のあるべき場所にむかうのです。〔……〕それぞれの重さによって動かされ、それぞれの場所をもとめるのです。定められた場所がないかぎり不安です。定められた場所におかれると落ち着きます。(p.194)
─ 『告白』13巻 9章
じゃっかん「レトリック」がすぎるかんじがしますが、いわんとしているコトは、わかりますね。
たとえば、恋愛感情に囚われた人が「神への愛」をめざしたとしても、その愛は〝居心地がわるく〟、こころは落ち着かないはず。
神・自己・他者 ─ どんな愛情でも、〝適した状態 or 場所〟におさまっていないと、不安・不安定になるわけです。
このあたりの指摘は、なかなか興味ぶかい指摘ですよね。
まとめ
まとめると、
りきぞう
・「時間」「愛」について、独自の思想を展開した
・愛について「それぞれの重さによって動かされ、それぞれの場所をもとめるのです。」などの名言を残した
ぜひ、アウグスティヌスの哲学を知るうえで、参考にしてみてください。
ではまた〜。




