モンゴル侵攻後の東南アジア ─ 阮朝・アユタヤ朝・マラッカ王国【世界史】

どうも、りきぞうです。

大学のころから、世界史に親しんできました。

大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。

・モンゴル侵攻後の東南アジアについて知りたい
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?

きょうは、この問いに答えていきます。

答えは、つぎのとおり。

キーワード
・陳朝
・チュノム
・黎朝
・阮朝
・スコータイ朝
・アユタヤ朝
・ラタナコーシン朝
・トゥングー朝
・コンバウン朝
・マラッカ王国
・マジャパヒト王国
重要人物
・阮福暎
・ピニュー
ポイント
・モンゴル侵攻後(13世紀以降)、東南アジアでは、いまにつながる領域国家がじょじょにつくられていった
・マラッカ王国の建国により、東南アジア諸島部ではイスラーム化が始まった

この記事では、つぎの本を参考にしました。

東南アジア世界は、モンゴル侵攻(13世紀)をうけて大きく変化しました。

以下、

  • ベトナム
  • タイ
  • ミャンマー
  • スマトラ
  • ジャワ

にスポットをあてて、それぞれの流れをたどっていきます。

東南アジアの歴史① ─ ベトナム

阮福暎

それまでベトナムはチャンパーなどの国家がおさめていました。

しかしそのなかからベトナム人の王朝である陳朝が台頭してきます。

かれらは紅河デルタを開発し、経済面で豊かになっていきます。

さらにモンゴル軍による侵攻のさいには、相手方の軍隊を撃破して、みずからの民族意識を高めていきます。

また、漢字をベースとした民族文字チェノム(字喃)を作成し、歴史書『大越史記』を編纂しています。

それまで覇権をにぎっていたチャンパーにも進出して、南へ領土を広げています。

黎朝

ベトナムは一時、中国の明朝による支配をうけます。これは、永楽帝の遠征によるものです。

しかし、50年もしないうちに支配は解かれ、ベトナム独自の王朝がつくられます。

それが黎朝(大越国)です。

約350年にもわたる長期王朝でした。

前期は、チャンパーを征服し、東南アジア史上初めて、全ベトナムの統一に成功します。

しかし後期では南北に分裂し、北部は鄭氏が、南部は阮氏がおさめることになります。

また、文化では朱子学が発達し、明に朝貢して、律令制などを学んだりしています。

阮朝

約350年つづいた黎朝ですが、西山の乱がおこり、阮文岳たちによって滅ぼされてしまいます。

代わって台頭したのが阮朝でした。

阮福暎によってたてられ、彼はフランス人宣教師ピニューの援助をうけて、さきに反乱をおこした西山朝を滅ぼし、王朝を成立させます。

都はユエにおかれました。

しかし、ときは近代に入り、欧米列強の進出がすすんでいました。

阮朝もその流れにまきこまるかたちで、19世紀には、フランスの侵略をうけることになります。

東南アジアの歴史② ─ タイ

アユタヤ朝の王宮

モンゴル軍の侵攻により四川&雲南にいたタイ人が、南へ流れていきますそれにともない、インドシナ半島でタイ人で王朝をたてます。

これがスコータイ王朝で、インドシナではさいしょのタイ人による国でした。都はスコータイにおきます。

ラームカムヘーン王のときが最盛期で、そのさいにタイ文字も作成しています。

ビルマから上座部仏教が広まり、これを国教としました。

アユタヤ朝

つづいて台頭したのがアユタヤ朝です。

17世紀には、タイ史上、最大の領土をほこり、こちらも上座部仏教を国教としました。

中国&西欧諸国ともさかんに交易をおこない、経済面でも豊かになりました。さらに国内に日本町をつくり、そこでは山田長政らが活躍します。

さいごは、コンバウン朝によって滅ぼされています。

ラタナコーシン朝

アユタヤ朝のつぎに台頭したのが、ラタナコーシン朝です。こちらは都をバンコクにおきました。

19世紀に入り近代化をはかり、そのまま独立を維持し、いまに至っています。

東南アジアの歴史③ ─ ビルマ

コンバウン朝の玉座

モンゴル軍の侵攻後、それまでおさめていたバガン朝が滅亡し、ビルマは分裂時代をむかえます。

そこからしばらくして台頭したのが、トゥングー(ダウングー)朝でした。ビルマ人による王朝で、都をペグーにおきます。

経済では内陸部とベンガン湾をむすぶ海洋交易をさかんにおこない、繁栄をきずきます。

文化はインドの影響がつよく、上座部仏教が広まっていました。

しかし、たびたびモン人の攻撃に合い、じょじょに国力をおとしていきます。

コンバウン朝

ダウングー朝が衰退するあいだに台頭したのがコンバウン朝でした。

こちらもビルマ人による王朝で、アラウンパヤーによって建国されました。

タイのアユタヤ朝を滅ぼし、中国の清朝軍も撃退しています。

しかし近代に入り、イギリスの侵略をうけ、そのまま衰退していきます。

東南アジアの歴史④ ─ スマトラ

マラッカ王国の王宮

スマトラでは、港市国家としてマラッカ王国がさかえました。

明王朝の鄭和による南海遠征のさいには、相手方と朝貢関係をむすびました。

それにより、タイのアユタヤ朝や、ジャワのマジャパヒト王国に経済面で対抗します。

またイスラームを受容し、マラッカ王国は東南アジアで初めてのイスラーム系国家となります。

以後、マラッカ王国は東南アジア世界のイスラーム化をおしすすめていきます。

さらに、海洋交易もよりいっそうさかんにおこない、マラッカ王国の人びとは、中国商人とムスリム商人を仲介する役割をになうようになります。

この中継貿易が大きく作用し、それまで繁栄をきずいてジャワのマジャパヒト王国は、じょじょに衰退していくことになります。

しかし約150年ほどで王国にもかげりがみえはじめ、さいごは海洋進出を果たしたポルトガルによって滅亡されるにいたります。

アチェ王国

つづいて、マラッカ王国に代わって台頭したのが、アチェ王国です。

こちらもイスラーム系国家で、スマトラ島の北端に王朝がきずかれました。

こちらは約500年以上つづく長期王朝でした。

東南アジアの歴史⑤ ─ ジャワ

マジャパヒト王国の芸術品

モンゴル侵攻まえ、ジャワはシンガサリ朝がおさめていました。

しかし、フビライの使者を追い返したのを口実に元軍の侵攻をうけ、滅亡に追いやられます。

代わって台頭したのが、うえでもとりあげたマジャパヒト王国でした。

かれらは元軍を撃退し、王国としてのかたちをきずいていきます。さかんに海洋交易をおこない、経済面でも繁栄をおうかします。

インドネシア全域を支配し、ヒンドゥー教を国教としました。

しかしイスラーム勢力の拡大から、じょじょに衰退し、さいごは滅亡することになります。

なお、インドネシアでは、マジャパヒト王国が、さいごのヒンドゥー教系の国家となります。

マジャパヒト王国に代わって台頭したのが、

・マラタム王国(ジャワ島東部)
・バンテン王国(ジャワ島西部)

でした。

どちらもイスラーム系国家であり、両国とも海洋交易でさかえました。

おわりに

モンゴル侵攻後の東南アジアをみてきました。

まとめると、こんなかんじです。

キーワード
・陳朝
・チュノム
・黎朝
・阮朝
・スコータイ朝
・アユタヤ朝
・ラタナコーシン朝
・トゥングー朝
・コンバウン朝
・マラッカ王国
・マジャパヒト王国
重要人物
・阮福暎
・ピニュー
ポイント
・モンゴル侵攻後(13世紀以降)、東南アジアでは、いまにつながる領域国家がじょじょにつくられていった
・マラッカ王国の建国により、東南アジア諸島部ではイスラーム化が始まった

この記事が、モンゴル侵攻後の東南アジアを理解するさいのヒントになれば、うれしいです。

では、また。