中国の普王朝&南北朝時代 ─ 北魏・占田法&課田法・均田制【わかりやすく解説】

どうも、りきぞうです。

大学のころから、世界史に親しんできました。

大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。

・中国の晋王朝&南北朝時代について知りたい
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?

きょうは、この問いに答えていきます。

答えは、つぎのとおり。

キーワード
・占田法&課田法
・五胡
・北魏
・均田制
重要人物
・司馬炎
・司馬睿
・拓跋氏
・孝文帝
ポイント
・西晋滅亡後、華北では五胡十六国が分立し、華中&華南では東晋が統治をおこなう
・南北朝時代、北朝の北魏では、孝文帝が均田制を実施し、中国の制度&文化をとりいれる漢化政策をおこなった

この記事では、つぎの本を参考にしました。

普王朝の成立

司馬炎

三国時代のあと、魏が華北一帯をおさめます。しかし王朝は長く続かず、武将だった司馬炎が魏を滅ぼして、みずからの王朝である「晋」を建国します。

都は洛陽におきました。

さらに江南で存続していた呉を滅ぼして、天下統一を果たします。

占田法&課田法

また乱れた土地制度を整備して占田法課田法を実施します。

占田法とは、身分に応じて、所有できる土地の上限をさだめ、税を課すしくみのことです。

いっぽう課田法は、人びとに公有地を割りあてたうえで耕作させ、その生産物を納税させるしくみのことです。

課田法はのちの均田制へと発展し、継承されていきます。

八王の乱&永嘉の乱

司馬炎亡きあと、晋王朝はなかなか安定せず、政治の中枢が揺らぎます。

帝位をめぐり、皇族内での身内争いがおこります。そのさい、対立派閥のひとつが、五胡とよばれる遊牧系の軍人をひきいれて、かれらの軍事力を利用します。

これにより、晋の国内はよりいっそう乱れ、軍人が好き勝手にはびこる状態におちいり、内乱状態となります。

学術上、八王の乱とよばれます。

10年以上にわたりつづき、晋はなんとか鎮圧します。

けれど今度は、遊牧系の匈奴がふたたび侵攻をはじめ、都のある洛陽は大混乱におちいります。

このときの戦乱を永嘉の乱とよび、侵攻をうけた晋は、これにより滅亡することになります。

五胡十六国の分立

鮮卑族の彫刻

晋王朝が滅亡したあと、華北一帯は、遊牧系の自立&乱立することになります。

学術上、この時代を「五胡十六国時代」とよびます。

五胡とは、遊牧系国家の総称です。具体的には、

・匈奴
・羯
・鮮卑
・氐
・羌

の5つをさします。

匈奴&羯&鮮卑は、モンゴル系(or トルコ系)で、氐&羌はチベット系とされます。

東晋の成立

司馬睿

また華北で滅んだ晋は、かれら親族の生き残りが、華中&華南へ移動し、ふたたび王朝をきずきます。これを「東晋」とよびます。

学術上、東晋がたてられたことで、滅びるまえの晋を「西晋」、いったん滅んで復活した晋を「東晋」とよびます。

東晋は司馬睿が建国し、都は健康(現 南京)におきました。

王朝が復興して以降、華北からぞくぞくと漢人が移り住み、江南の開発が一気にすすんでいきます。

北朝(北魏)の成立

北魏 孝文帝

東晋が成立したあと、華北/華南にそれぞれの王朝ができたことから、学術上、以後の時代を南北朝時代とよびます。

北魏の建国

まずは北朝では国家が乱立するなかで、鮮卑系の拓跋氏北魏をたてます。

都は平城におきました。

太武帝(3代)のときに、華北統一を果たしました。

そのさい、学者の寇謙之(こうけんし)をそばにおき、道教を国教としたうえで、仏教の弾圧をおこないました。

鮮卑の〔中略〕王である拓跋珪(たくばつけい)はまもなく魏王と改称し、後燕をやぶると都を盛楽から平城に移して皇帝に即位した。こうして北魏初代皇帝となった道武帝は〔中略〕部族民を直接支配するようになった。(p.111)

─ 『詳説 世界史研究』

孝文帝の施策

つづいて孝文帝(6代)のときには、北魏のみならず北朝の統治制度がつくられていきます。

孝文帝のおこなったおもな施策は、つぎのとおりです。

・均田制
・三長制
・漢化政策
・洛陽への遷都

均田制では青年男子に土地を支給し、その見返りに地代や生産物を徴収しました。

ただし、理にかなった政策でしたが、青年男子の妻&奴婢などにも田畑が提供されたために、かれらを農奴としてあつかう豪族に有利にはたらく結果となってしまいました。

三長制では、隣保制度をさだめ、戸籍の作成と、それにもとづく課税をおこなわせました。

漢化政策では、言語&服装&名前を遊牧民の習慣から、中国風に変更させました。

このように北魏はもともと、匈奴系の国家でしたが、ときが経つにつれて、漢人の制度や文化をとりいれ、じょじょに中華風になっていきます。

しかし孝文帝の死後、一連の漢化政策に不満をもった鮮卑系の遊牧族が反旗をひるがえし、華北一帯に反乱がおこります。

結果、北魏は衰退し、

・東魏
・西魏

に分裂します。

さらに東魏は北斉となり、さいごは北周により滅亡することになります。

かたや西魏は、府兵制を採用し国力増強にはげむものの、北周によって滅ぼされてしまいます。

南朝の成立

梁皇帝 蕭衍

いっぽう北朝にたいする南朝では、はじめ東晋が華中&華南一帯をおさめていましたが、けっきょくは武将の劉裕によって滅ぼされてしまいます。

劉裕は武帝として即位し、宋を建国します。

しかし宋もまた長くはつづかず、以後、

・宋

・斉

・梁

・陳

といった流れで、移りかわっていきます。

なかなか安定した王朝がうまれないものの、きほんどの国も荘園をいとなむ門閥貴族が支配の中心でした。

また経済面では江南の開発が着実にすすみ、中国一帯の穀倉地帯へと変わっていきます。

おわりに

中国の普王朝&南北朝時代をみてきました。

まとめると、こんなかんじです。

キーワード
・占田法&課田法
・五胡
・北魏
・均田制
重要人物
・司馬炎
・司馬睿
・拓跋氏
・孝文帝
ポイント
・西晋滅亡後、華北では五胡十六国が分立し、華中&華南では東晋が統治をおこなう
・南北朝時代、北朝の北魏では、孝文帝が均田制を実施し、中国の制度&文化をとりいれる漢化政策をおこなった

この記事が、中国の普王朝&南北朝時代を理解するさいのヒントになれば、うれしいです。

では、また。