どうも、りきぞうです。
大学のころから、世界史に親しんできました。
大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?
きょうは、この問いに答えていきます。
答えは、つぎのとおり。
・呉楚七国の乱
・郷挙里選
・匈奴
・衛氏朝鮮
・楽浪郡
・均輸法&平準法
・外戚
・宦官
・新王朝
・赤眉の乱
・党錮の禁
・黄巾の乱
・項羽
・武帝
・董仲舒
・張騫
・王莽
・光武帝
・班超
・漢はいったん外戚の王莽により帝位を奪われるものの、劉秀が奪還し、後漢としてふたたび王朝を再建した
この記事では、つぎの本を参考にしました。
目次
前漢の成立

陳勝・呉広の乱により、中華統一を果たした秦王朝が滅亡します。それにより各地の有力者が名のりをあげ、権力争いをくりひろげます。
そのなかで、
vs
楚の名門の項羽
が、激しい戦いを演じます。
結果、劉邦が項羽をうちやぶり、ふたたび中華統一を果たします。
都を長安(現 西安)におき、秦王朝のあとをひきつぐかたちで、漢王朝を成立させます。
郡国制
統治のしくみについては、きほん秦王朝の制度をあまりかえずに採用しました。
都近郊の直轄地には郡県制をしき、地方の離れた地域には、地元の有力者や一族を諸侯としたうえで、封建制を採用しました。
このように直轄地/地方地域で統治法を併用するやり方を「郡国制」とよびます。
vs 匈奴
また中国の外側にたいしては、何度か遠征をおくりますが、早い段階で手をひいてきます。
匈奴の冒頓単于には戦いに敗れてしまい、和平をもちかけています。
呉楚七国の乱
劉邦が生きているあいだは漢王朝は比較的安定していましたが、彼が亡くなると、政治運営にじゃっかん混乱が生じます。
劉邦亡きあと、ときの皇帝景帝による諸侯王の削減政策にたいする反発が、にわかに高まっていきます。
最終的には、諸侯の反乱にまで発展し、これを「呉楚七国の乱」とよびます。
鎮圧には成功し、諸侯王たちの領地を没収することになるものの、この乱以降、漢王朝は実質的に郡県制を採用することになります。
前漢の発展

前漢は武帝のときに最盛期をむかえます。
以下、内政と外征にわけて、みていきましょう。
内政 ─ 郷挙里選
内政では、官吏を登用するさいに郷挙里選をはじめます。
これは地方長官が、地元の有徳者を中央に推薦する制度です。このしくみがとられたことで、地方豪族が中央に進出するのようになります。
また、儒学を官学化(国学化)し、宰相である董仲舒(とうちゅうじょ)の施策により、五経博士が設置されることになります。
外征 ─ 匈奴討伐&郡の設置
武帝は、積極的に海外遠征をおこないました。
まず北方については、匈奴討伐をおしすすめ、結果、敦煌群などの河西4郡などを設置しています。
また西域開発にも熱心で、武将の張騫を、その地をおさめていた大月氏に派遣して、匈奴をはさみ撃ちにしようとします。
挟撃自体は失敗するものの、張騫の派遣により、それまで知られていなかった西域の事情が判明します。
のちに、同じ月氏系の烏孫に使者をおくり、同盟をむすぶことに成功しています。
また、李広利を大宛(現 フェルガナ)に派遣し、名馬で有名な汗血馬を手にしています。
いっぽう朝鮮地域にも遠征軍を派遣し、衛氏朝鮮を滅ぼしたうえで、そこに朝鮮4郡(=楽浪郡など)を設置しています。
また南方にも軍をおくり、南越を滅ぼして、南海9郡(南海など)を設置しています。
財政再建
ただし一連の積極政策により、漢王朝は財政危機におちいります。
そのため武帝亡きあとは、宰相を中心に財政再建がなされていきます。
おもな施策は、つぎの3つです。
・均輸法&平準法の実施
・五銖銭の鋳造
なかでも、塩専売の効果は大きく、人びとにとって生活必需品であるため、安定した収入を得ることができました。
均輸法とは物価調整策のことで、
というしくみです。
平準法も同じような制度で、
というしくみです。
こうすることで、安定した税収を確保しようとしました。
しかしどちらのしくみも、ときを経るごとにうまくいかなくなり、財政難を解消するまでにはいたりませんでした。
つづいて、哀帝のときにも、地方豪族をおさえ、税収を確保するため、限田策などを計画しますが、実施することさえできませんでした。
前漢の崩壊&新の形成

漢の財政がひっぱくするなかで、王朝内部でも大きな動きがみられるようになります。
それまでは武帝のように、皇帝が政策実施の担い手でしたが、じょじょに、
・後宮につかえる宦官
の専横が目立つようになります。
ついには、皇后の外戚である王莽が帝位を奪い、皇帝の座に就いてしまいます。
国名を漢から「新」にかえ、かつての周王朝のような古きよき王朝をつくりあげようとします。
しかしあまりに復古主義かつ時代錯誤な政策方針だったため、国内は大きく乱れます。
結果、赤眉の乱や豪族たちによる地方反乱がおこり、新は50年も経たずに滅亡することになります。
後漢の成立

新が滅んだあと、漢を再興させたのが劉秀(光武帝)でした。
都を洛陽におき、赤眉の乱を鎮圧したあと国内の統治制度を整えていきます。地方の豪族とは連合関係をむすび、なんとか反乱をおさえることに成功します。
また、このとき倭(日本)から使者がおとずれ、金印をあたえて、冊封をおこなっています。これが日本史で有名な、卑弥呼ひきいる「漢倭奴国王」です。
なお学術上、同じ漢であっても、
・「新王朝」以後 → 後漢
とよぶことになっています。
西域経営
後漢では、前漢にひきつづき、西域の経営を熱心におこないます。
西域都護である班超が、カスピ海以東の50あまりの国を支配下におき、さらに部下の甘英を大秦国(ローマ帝国)にまで派遣しようとします。
反対に、ローマ側から使者がやってきて、皇帝マルクス=アウレリウス=アントニウスの使いとされる商人が、海路をつうじて日南郡に来航します。
この時代、帝政ローマと後漢も国内政治が安定していたので、経済面&文化面での交流が成立しやすいタイミングでした。
後漢の衰退

しかし、後漢成立から約150年ちかく経ったころ、王朝にだんだんとかげりがみえはじめます。
地方豪族が経済面で力をのばし、権勢をふるうようになります。
まわりの土地を買いあつめ、郷挙里選で中央政治に影響をおよぼすようになります。
さらに宮廷では、幼い皇帝がつづき、かれらを外戚や宦官があやつりながら、みずからの利益のために権力争いにあけくれます。
そんななかで、宦官による官僚と学者を弾圧する事件となった党錮の禁がおこります。
事件自体は短期間で収束しましたが、このできごとをきっかけに漢王朝の権威は一気に失墜することになります。
結果、全国各地で漢王朝打倒の動きがおこります。
なかでも、新興宗教団体である太平道の張角たちがおこした黄巾の乱がきっかけとなり、以降、各地の豪族が自立しはじめ、漢王朝の権威は完全に地に落ちることになります。
さいごは、曹丕が魏王朝をひらき、これにより漢王朝は滅亡することとなりました。
おわりに
漢王朝についてみてきました。
まとめると、こんなかんじです。
・呉楚七国の乱
・郷挙里選
・匈奴
・衛氏朝鮮
・楽浪郡
・均輸法&平準法
・外戚
・宦官
・新王朝
・赤眉の乱
・党錮の禁
・黄巾の乱
・項羽
・武帝
・董仲舒
・張騫
・王莽
・光武帝
・班超
・漢はいったん外戚の王莽により帝位を奪われるものの、劉秀が奪還し、後漢としてふたたび王朝を再建した
この記事が、漢王朝を理解するさいのヒントになれば、うれしいです。
では、また。




