どうも、りきぞうです。
大学のころから、世界史に親しんできました。
大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?
きょうは、この問いに答えていきます。
答えは、つぎのとおり。
・シヴァ神/ヴィシュヌ神/ブラフマー神
・『マヌ法典』
・『マハーバーラタ』&『ラーマーヤナ』
・グプタ様式
・石窟寺院
・ナーランダー僧院
・ハルシャ王
・玄奘
・義浄
この記事では、つぎの本を参考にしました。
目次
グプタ朝の形成

クシャーナ朝の崩壊後、ふたたびインド統一を果たしたのがグプタ朝でした。
グプタ朝は、チャンドラグプタ1世がインダス川中流域にたてた王国で、都はパータリプトラにおきました。
寛大な統治をとり、征服した土地においても従来の有力者にそのまま支配を任せました。中央集権型というよりも、分権的な統治をおこないました。
グプタ朝の発展

グプタ朝は、3代チャンドラグプタ2世のときに最盛期をむかえます。
彼は北インドを統一し、グプタ朝の権力基盤をたしかなものとします。
また、チャンドラグプタ2世のときには、中国の東晋から、仏僧の法顕がおとずれ、迎えいれています。
ヒンドゥー教の広まり
チャンドラグプタ2世の治世をふくめ、グプタ朝のときに外せないのが、インドにヒンドゥー教が定着したことです。
そもそもヒンドゥー教は、ふるくからあるバラモン教の三大神に、民間信仰&仏教が合わさったものです。
三大神とは、
・ヴィシュヌ神
・ブラフマー神
のことです。
またこの時期には、ヒンドゥー教の法典『マヌ法典』も完成し、ヴァルナ(階級)ごとの義務や、日常生活の取り決めが、細かく規定されるようになりました。
さらにヒンドゥー教の普及に合わせて、古典文化も完成します。
おもな作品をあげると、つぎのとおりです。
・『シャクンタラー』(宮廷詩人カーリダーサ 作)
・アジェンター石窟寺院(グプタ朝様式美術)
また、学術も発達し、グプタ朝の時代に、
・ゼロの概念
・十進法
が、生み出されています。
なかでも、インド数字、ゼロの概念、十進法の3つは、その後のイスラーム世界に大きな影響をあたえました。
仏教の衰退
ヒンドゥー教が人びとのあいだで根づいたいっぽうで、仏教のほうはインド人の生活から離れていきます。
たしかにグプタ朝の時代にたてられたナーランダー僧院では、教義研究がさかんにおこわれました。
けれど民間信仰としては、仏教はインドでは衰退の一途をたどっていきます。
その背景には、
・ヒンドゥー教のバクティ運動による排撃
などの要因がありました。
グプタ朝の中ごろになると、インドをふくめ周辺国との交易が、じょじょに減っていきます。そのため教団を保護するほどの余裕がなくなり、結果、仏教が衰退していきました。
また、
・歌と踊りをともなう信仰告白
を中心とする、ヒンドゥー教のバクティ運動がさかんになり、その動きの過程で、仏教やジャイナ教が排撃され、両宗教とも衰退していきました。
ヴァルダナ朝の成立

グプタ朝は、約200年存続し、滅亡にいたります。要因は、異民族のエフタルがたひたび侵攻し、結果、国力が衰退したから、といわれています。
しかし約50年も経たないうちに、つぎの統一王朝があらわれます。
ヴァルダナ朝です。
ハルシャ王によってたてられ、都をカナウジにおきました。
宗教政策
宗教にかんしては、ヒンドゥー教・仏教・ジャイナ教の3宗教をそれぞれ保護しました。
またヴァルダナ朝のときに、中国の唐から仏僧の玄奘がおとずれています。
彼は(中国翻訳ではない)オリジナルの仏典にふれるため、ナーランダー僧院で約10年にわたり研究に没頭します。
さらに彼のあとにも、唐の仏僧義浄が訪れて、玄奘と同じく、ナーランダー僧院におもむき、研究にはげみます。
崩壊
そんなヴァルダナ朝ですが、創始者のハルシャ王が亡くなると、いっきに崩壊してしまいます。
要因はわかっていませんが、ワンマンな政治運営の〝むり〟が生じたのかもしれません。
以後、北インドは分裂期に、各地の有力者や豪族が領地や権限をめぐり、小規模な争いをつづけていくことになります。
おわりに
グプタ朝&ヴァルダナ朝についてみてきました。
まとめると、こんなかんじです。
・シヴァ神/ヴィシュヌ神/ブラフマー神
・『マヌ法典』
・『マハーバーラタ』&『ラーマーヤナ』
・グプタ様式
・石窟寺院
・ナーランダー僧院
・ハルシャ王
・玄奘
・義浄
この記事が、グプタ朝&ヴァルダナ朝を理解するさいのヒントになれば、うれしいです。
では、また。




