教皇権の衰退 ─ 低下・アナーニ事件・教皇のバビロン捕囚・教会大分裂【中世ヨーロッパ】

どうも、りきぞうです。

大学のころから、世界史に親しんできました。

大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。

・教皇権の衰退について知りたい
・大事なキーワードは?
・この時代のポイントは?

きょうは、この問いに答えていきます。

答えは、つぎのとおり。

キーワード
・アナーニ事件
・教皇のバビロン捕囚
・教会大分裂(大シスマ)
・コンスタンツ公会議
・フス戦争
重要人物
・フィリップ4世
・ボニファティウス8世
・ウィクリフ
・フス
ポイント
・アナーニー事件、教皇のバビロン捕囚、教会大分裂をつうじて、教皇権は衰退していく

この記事では、つぎの本を参考にしました。

教皇権衰退の要因

中世後半になると、教皇権もじょじょに衰えていきます。

その要因は、つぎの2点です。

・経済の困窮
・異端派の躍動

たしかに13世紀前半までは、教会の財政基盤はしっかりしていました。

しかし、

・十字軍の失敗
・教会組織の腐敗
・荘園制の崩壊

などから、教皇のふところ具合は、きびしくなっていきます。

また、財政がひっぱくするなかで、ヨーロッパ各地に異端派が台頭していきます。

なかでも、マニ教の影響をうけたカタリ派は、ヨーロッパ一帯にひろまり、フランスを拠点にアルビジョワ派を形成します。

かれらは、ローマ=カトリック教会とは反対に、金づかいが荒くなく、清貧をモットーとしていました。

そのような態度が支持されて、民衆のあいだで、かれらの信仰が広まっていきました。

その後、フランス王フィリップ2世&ルイ9世によるアルビジョワ十字軍が派遣され、カタリ派は根絶されます。

しかし、異端派をしりぞけても教皇権は回復せず、むしろ十字軍を組織したフランス王権が、勢力をのばしていきます。

以上、

・経済の困窮
・異端派の躍動

の2つから、教皇権は衰えていきます。

教皇権衰退をもたらしたできごと

ボニファティウス8世の捕縛(出典:wiki

ここで、教皇権の衰えを象徴する事件をみていきましょう。

つぎの3つです。

  • アナーニー事件
  • 教皇のバビロン捕囚
  • 教会大分裂(大シスマ)

それぞれ、かんたんにふれてみます。

アナーニー事件

アナーニー事件とは、

聖職者への課税問題をめぐる、フランス王フィリップ4世 vs 教皇ボニファティウス8世の対立

です。

課税権を獲得するため、フランス王フィリップ4世は、民衆の代表組織である三部会を招集します。

会議では「課税権は国王にある」と主張し、この考えに反する教皇を捕らえるよう求めます。

結果、国王の要求は認められ、ボニファティウス8世はイタリアのアナーニーで逮捕、幽閉されます。

あまりの無礼なふるまいに、教皇は牢獄で憤死したとされます。

教皇のバビロン捕囚

こちらも、フランス王フィリップ4世が教皇と対立した事件です。

ときの教皇はクレメンス5世でした。

ふたたび国王と教皇は聖職権をめぐって争い、フィリップ4世は、クレメンス5世と教皇庁そのものを、南フランスのアヴィニョンに移すことを決めます。

事実上の幽閉であり、教会側の立場から「教皇のバビロン捕囚」とよばれました。

教会大分裂(大シスマ)

教皇のフランス本国での監視は、約70年にわたりつづきます。

その後、教皇はもといたローマに戻りますが、ここでフランスは、ローマの教皇に対抗して、フランス王が任命する教皇を、アヴィニョンの地で、もうひとりたてます。

これによりヨーロッパ世界には、ふたりの教皇が存在し、ふたつの教会が並び立つことになります。

この事件を「教会大分裂(大シスマ)」とよび、教皇庁がまっぷたつに割れる事態をもたらしました。

以上3つの事件は、教会と教皇権の権威をおとし、以後、教皇はヨーロッパでの影響を、ひどく落とすことになります。

教会改革運動

コンスタンツ公会議でのフス(出典:wiki

衰退する教会をみて、キリスト教徒のあいだから改革運動がおこります。

そのさい活躍した人物は、つぎの2人です。

・ウィクリフ
・フス

以下、彼らの活動をかんたんにみていきます。

ウィクリフ

ウィクリフは、イギリス・オクスフォード大学の神学教授でした。

教会のだらしなさをみかねたウィクリフは、カトリックの腐敗と堕落を批判しつつ、聖書中心主義を提唱します。

聖職を英訳し、さきにみた教会大分裂の最中に、イギリス教会から独自に教皇を選出させるよう主張します。

ウィクリフの行動は、マルティン=ルターの先駆けともいえ、イギリスの宗教改革者といわれています。

フス

フスはチェコ出身で、彼もまたプラハ大学の神学教授でした。

ウィクリフの勇気ある行動に共感し、彼と同じく聖書中心主義をうったえます。

ウィクリフと同じく、母国のチェコ語に翻訳し、人びとにたいして、教会に頼らない信仰をうながします。

フスもまた、のちのルターの先駆けといえ、ベーメンの宗教改革者といわれています。

コンスタンツ公会議とフスの処刑

残念ながら、ふたりの宗教活動は実をむすびませんでした。

ローマ教会に肩入れするドイツ皇帝ジギスムントがコンスタンツ公会議を開き、問題となっていた教会大分裂を終結させます。

さらにこの会議では、ウィクリフとフスのふるまいを異端とみなし、フスのほうは火刑に処されます。

しかし、彼の故郷ベーメンでは反発がおこり、こののち約20年にわたりフス戦争がつづいていきます。

このように、改革運動や、それにたいする反発がおきても、教会や教皇の権威復興ら成り立ちませんでした。

以後は、教皇に代わり、各地の国王がヨーロッパ政治を動かしていきます。

おわりに

教皇権の衰退についてみてきました。

まとめると、こんなかんじです。

キーワード
・アナーニ事件
・教皇のバビロン捕囚
・教会大分裂(大シスマ)
・コンスタンツ公会議
・フス戦争
重要人物
・フィリップ4世
・ボニファティウス8世
・ウィクリフ
・フス
ポイント
・アナーニー事件、教皇のバビロン捕囚、教会大分裂をつうじて、教皇権は衰退していく

この記事が、教皇権の衰退を理解するさいのヒントになれば、うれしいです。

では、また。