どうも、りきぞうです。
大学のころから、世界史に親しんできました。
大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?
きょうは、この問いに答えていきます。
答えは、つぎのとおり。
・科挙
・高句麗遠征
・煬帝
この記事では、つぎの本を参考にしました。
目次
隋の形成

それまで中国の華北地域は、北斉/北周に分かれていました。
そのなかから、北周の武将だった楊堅が仕えていた王朝にクーデターをおこし、北斉を倒したうえで、みずからの国をたてます。
これが隋です。都は大興城(現 西安)におきました。
さらに華中&華南をおさめていた南朝の陳を滅ぼして、中国統一を果たします(589年)。
隋による中華統一により、魏晋南北朝時代は終焉をむかえます。
文帝は、政治の刷新を印象づけるため、北周の長安城のちかくに新たに大興城を建設して遷都した。そして、弱体化していた南朝の陳を滅ぼして、中国を統一した(589年)。(p.117)
─ 『詳説 世界史研究』
文帝として即位した楊堅は、内政の整備にとりかかります。
きほん魏晋南北朝時代に各国で採用された制度をアレンジし、改良したものでした。
まず国の支柱となった制度は、つぎの3つです。
・府兵制(西魏〜)
・租調庸制(北魏〜)
これらが三本柱となって、隋の国を支えていました。
さらに、つぎの施策も隋王朝に大きく貢献しました。
・州県制による地方統治
・大運河の建設
官吏登用法は官僚の採用システムのことで、隋王朝からはじめて、試験による選挙、つまり科挙が実施されました。
以降、科挙は1905年の清朝末期までつづきます。
また外交政策では、積極的な遠征は実施しなかったものの、北朝時代に長く悩まされてきた突厥を東西に分裂させ、おさえることに成功しています。
そのために、外敵から侵入を気にすることなく、内政の整備に力をそそげるようになりました。
隋の発展

楊堅のあと、むすこの煬帝が皇帝として即位します。
彼は兄と父を殺し、ほぼクーデターのようなかたちで皇帝の座を獲得しました。
暴君として名高い煬帝ですが、楊堅にひきつづき、内政の整備に着手します。
まず、それまで経過途中だった大運河の完成にこぎつけます。
これにより、経済中心の江南と政治&軍事の中心である華北がむすばれ、中国の一体化が促進されます。
さらに煬帝は外征も積極的におこない、
・吐谷渾
・チャンパー(東南アジア)
・琉球(台湾)
を打ち倒します。
さらに朝鮮半島の高句麗にも攻めこみ(高句麗遠征)、3度にわたり遠征隊をおくります(612年、613年、614年)。
しかしどれも失敗に終わり、さらに悪いことに、このときの過酷な軍役や、大運河建設で労役をしいられた人びとの不満が爆発し、中国各地で農民反乱がひんぱつします。
結果、煬帝は鎮圧することができず、本人は自殺に追いこまれ、隋王朝も滅亡することになりました。
おわりに
隋王朝をみてきました。
まとめると、こんなかんじです。
・科挙
・高句麗遠征
・煬帝
この記事が、隋王朝を理解するさいのヒントになれば、うれしいです。
では、また。