イギリスのインド植民地 ─ 影響・宗教・理由・紅茶・シパーヒーの反乱・インド帝国【わかりやすく解説】

どうも、りきぞうです。

大学のころから、世界史に親しんできました。

大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。

・イギリスのインド植民地について知りたい
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?

きょうは、この問いに答えていきます。

答えは、つぎのとおり。

キーワード
・綿布
・カーナティック戦争
・プラッシーの戦い
・マイソール戦争
・マラーター戦争
・シク戦争
・シパーヒーの反乱
・インド帝国
ポイント
・重い徴税制度とイギリス産の綿布流入により、インド経済はいちじるしく後退した

この記事では、つぎの本を参考にしました。

イギリスのインド植民地① ─ イギリス vs フランス

カーナティック戦争

イギリスによってインドの植民地化が本格化するまえ、オランダ・フランス・イギリスの各国が東インド会社を設立したうえで、ヨーロッパ市場に向けてインドから綿布を輸出していました。

結果、インドには大量の金や銀が流入します。それにより経済力を伸ばした地方政権が台頭し、いままでを統治していたムガル帝国は実権をうしない、名目上の存在へと変わっていきます。

そんななかオーストリア継承戦争や七年戦争と関連して、インドの領土をめぐりイギリスとフランスとのあいだで植民地競争が激しさを増していきます。

イギリスの拠点は、

・マドラス
・ボンベイ
・カルカッタ

でした。

いっぽうフランスの拠点は、

・ポンディシェリ
・シャンデルナゴル

でした。

それぞれの拠点を抑えるなかで、ついに両国の間で戦争が勃発します。

南インドではカーナティック戦争がおこり、イギリスが勝利を果たします。

東インドではプラッシーの戦いがおこり、現地の有力者を巻きこみながら、

イギリスの東インド会社軍
vs
フランス&ベンガル連合軍

といった構図で、戦争が展開されます。

結果、どちらの戦いともイギリスが勝利し、パリ条約を結んだうえで、ベンガルとビハールにおける徴税権と司法権を獲得します。

両戦争での敗北から、フランスはインドから手を引き、以後イギリスによるインド植民地化がすすんでいくことになります。

イギリスのインド植民地② ─ 3つの戦争

シク戦争

イギリスによるインドの植民地化が進むなかでおきたのが、つぎの戦争です。

・マイソール戦争
・マラーター戦争
・シク戦争

マイソール戦争は南部のマイソール王国が中心となっておこした争いです。計4回の戦いで、すべてイギリスが勝利を果たし、南インドの領土を獲得します。

マラーター戦争は西部デカン高原のマラーター同盟がおこした争いです。計3回の戦いがおこなれ、こちらもイギリスの勝利でおわります。それにより、もともと拠点としていたボンベイを中心に、西インド地域もおさめていくことになります。

シク戦争はインド西北部パンシャープ地方を統治していたシク王国がおこした争いです。計2回の戦いがおこなわれ、イギリスが勝利を果たし、こちらも領有権を獲得することになります。

以上3つの戦争を起点に、イギリスはインド支配を着々とすすめていきます。

イギリスのインド植民地③ ─ 統治のしくみ

ザミーンダール

植民地化したあとの、イギリスによるインドの統治方法は、どんなかんじだったのでしょうか。

  • 統治組織
  • 徴税方式
  • 産業政策
  • 教育制度

の側面からみていきます。

統治組織

植民地が本格化する前から、インド統治は東インド会社が独占的に行っていました。

しかしその状況にも変化がおこります。

産業革命により経済力をつけた産業資本家が台頭し、東インド会社が持っていた特権をじょじょに奪っていきました。その結果、東インド会社によるインド貿易の独占権が廃止されます。

またその約20年後には、対中国との貿易&茶貿易の独占権も廃止されます。

さらにその翌年には商業活動そのものが停止され、東インド会社によるインド統治は名目上のものとなっていきます。

以後、インド貿易は産業資本家がたてた複数の会社により、実権を握られることになります。

徴税方式

徴税にかんしては、地代がもっとも大きい財源でした。

北部インドでは「ザミンダーリー制」とよばれる制度をしき、もともといた地主 or 領主の土地所有を認めたうえで、地租の納入を課していました(制度名は、イギリス支配以前の北インドを中心に存在していた「ザミーンダール」に由来します)。

いっぽう南部では「ライヤットワーリー制」とよばれる制度をしき、こちらは小作人の土地所有を認めたうえで、地租による納税義務を課していました。

なお、あまりに過酷な納税義務だったので、農民層は没落し、インド伝統の村落共同体はだんだんと崩壊していくことになります。

産業政策

植民地が本格化するまえは、インドでつくった綿布がイギリスに送られていました。

しかしイギリス本国で産業革命が進展したことで、イギリスの機械制綿布がインド産の綿布を圧倒します。

これによりインドは綿布の輸出国から、イギリス産の綿布を買い取る輸入国へと転落します。イギリスの原材料を供給地となり、同時に、イギリス綿布を消費地として位置づけられるようになります。

また、それまでの綿花だけではなく、お茶、アヘン、藍など、輸出用の商品作物を栽培し、インド国内では大規模農地(プランテーション)が拡大します。

教育制度

教育にかんしては、人々の間で英語教育が実施され、ボンベイ、マドラス、ボンベイにはイギリス式の大学が設置されます。

そこではインド植民地統治のための人材育成がなされます。

しかしイギリスのねらいに反して、大学で教育を受けた学生たちは、ナショナリズムにめざめ、のちにインド民族運動の担い手となっていきます。

イギリスのインドの植民地④ ─ シパーヒーの反乱

シパーヒーの反乱

イギリスによる植民地支配がすすみ、インドの人々は過酷な環境を強いられることになります。そのなかでおきたのが「シパーヒーの反乱」とよばれる大規模な民衆反乱でした。

以下、[背景 → 展開 → 影響]に沿って、反乱のようすをみていきましょう。

背景

イギリスによる植民地後、旧支配層、地主、没落農民&手工業者を中心に、英国への不満が高まっていきます。

そんななか東インド会社に所属するインド人傭兵の間で、あるうわさが広まります。

それは、

新式銃をもちいるさい、牛と豚の脂が塗ってある弾薬砲をつかう必要がある

というものでした。

ヒンドゥを信仰するインド人にとっては、豚を口にすることはご法度です。

それでも銃の使用を強制するイギリス人にたいし、信仰をないがしろにされたインド人は怒りをあらわにし、反抗をおこします。

これが「シパーヒーの反乱」です。

展開

反抗はだんだんと高まっていき、反乱軍がデリーを占領し、名目上の君主に成り下がっていたムガル皇帝をあらためて擁立します。

インド出自の皇帝を立てたことで各階層の人びともぞくぞくと加わり、ついには「インド大反乱」とよばれる民衆反乱へと発展します。

しかし約2年ばかり過ぎると、反乱軍の足並みがそろわず、最終的にはイギリス軍により鎮圧されてしまいます。

影響

インド大反乱の結果、ムガル帝国が完全に滅亡します。

いっぽう大規模な反乱を起こしてしまった東インド会社は解散を命じられます。かわってイギリス政府による直接統治がおこなれ、イギリス本国のヴィクトリア女王を皇帝にたてたうえでインド帝国を成立させます。

統治にかんしては、インド全体を直轄地/藩王国(約550)に分けたうえで、イギリスお得意の分割統治を実施していきます。

おわりに

イギリスのインド植民地をみてきました。

まとめると、こんなかんじです。

キーワード
・綿布
・カーナティック戦争
・プラッシーの戦い
・マイソール戦争
・マラーター戦争
・シク戦争
・シパーヒーの反乱
・インド帝国
ポイント
・重い徴税制度とイギリス産の綿布流入により、インド経済はいちじるしく後退した

この記事が、イギリスのインド植民地を理解するさいのヒントになれば、うれしいです。

では、また。