秦王朝 ─ 始皇帝・万里の長城・郡県制・焚書坑儒【中国の歴史】

どうも、りきぞうです。

大学のころから、世界史に親しんできました。

大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。

・秦王朝について知りたい
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?

きょうは、この問いに答えていきます。

答えは、つぎのとおり。

キーワード
・郡県制
・焚書坑儒
・万里の長城
・陳勝呉広の乱
重要人物
・商鞅
・始皇帝
ポイント
・秦の始皇帝が天下を統一し、法治主義と郡県制により中国一帯を統治した

この記事では、つぎの本を参考にしました。

秦の形成

商鞅

秦王朝は「戦国の七雄」のひとつでした。

もともと辺境に位置し、国力もさほど高くはありませんでした。

しかし、孝公のもとで法家の商鞅が変法を実施してから、急速に力をつけるようになります。

彼は全国に郡県制しき、行政改革をおこないます。法家の信賞必罰という考えのもと、良いことをしたら褒美をあたえ、悪いことをしたら徹底した罰をあたえます。

さらに富国強兵策をとり、経済の底上げをはかります。

それなりに豊かになったところで、都を咸陽(現 西安)におき、そこを中心に、中央集権体制をかためていきました。

秦による中華統一

始皇帝

商鞅の行政改革から約100年後、ついに秦王の政が中華統一を果たします(B.C.221年)。

これを契機に、みすがら「皇帝」を名のり始皇帝として君臨します。

始皇帝は統一後も、その後の中国を基盤となるような制度や政策を、つきつぎと打ち出しました。

具体的には、

・郡県制
・文字&貨幣&度量衡の規格統一
・焚書坑儒(言論統制)

の3つです。

まず、中国一帯に郡県制をしき、中央から官吏を派遣し、地方行政をおこないました。

そのさい政治の中枢には、法家の李斯が、丞相(じょうしょう)として権勢をふるっていました。

またそれまで各国でバラバラだった、文字&貨幣&度量衡を、つぎのように統一します。

・文字 → 小篆
・貨幣 → 半両銭
・度量衡 → 標準器

さいごに、言論統制さえもおこないます。

統一後、王朝周辺では、法家にもとづく政治のやり方に、儒教を支持する人たちから、さまざまな反発がありました。

抵抗はそれほどでもなかったとされますが、ある種の〝みせしめ〟のために、(医薬・占い・農業以外の)儒教系の書物をすべて焼きはらいました。

さらに、これに反発した儒者をとらえたうえで、生き埋めの刑に処罰しました。

これら一連の言論統制を「焚書坑儒」とよびます。

秦の対外戦争

万里の長城

始皇帝は、中華統一後も積極的に海外遠征に乗りだします。

北方では、遊牧系の匈奴にたいして攻め込み、国防のために、長城を改修します。

また南方へも遠征をおくり、南海郡など3群を設置しています。

秦の衰退

兵馬俑

さまざまな施策をつうじて国づくりをおこなってきた始皇帝ですが、彼が亡くなると、秦の土台が揺らいでいきます。

・急激な統一事業
・軍事負担の増大
・土木事業による民衆の疲労
・厳格な法治主義

などから、一般民衆の不満が爆発します。

そのなかでも、陳勝と呉広がおこした農民反乱(=陳勝・呉広の乱)は大規模で、ふたりの反乱を〝のろし〟に、中国全土で反秦国の動きが加速します。

結果、始皇帝の死から5年も経たないうちに、秦を滅亡することになります。

おわりに

秦王朝についてみてきました。

まとめると、こんなかんじです。

キーワード
・郡県制
・焚書坑儒
・万里の長城
・陳勝呉広の乱
重要人物
・商鞅
・始皇帝
ポイント
・秦の始皇帝が天下を統一し、法治主義と郡県制により中国一帯を統治した

この記事が、秦王朝を理解するさいのヒントになれば、うれしいです。

では、また。