中国の三国時代とは? ─ 魏・呉・蜀【わかりやすく解説】

どうも、りきぞうです。

大学のころから、世界史に親しんできました。

大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。

・中国の三国時代について知りたい
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?

きょうは、この問いに答えていきます。

答えは、つぎのとおり。

キーワード
・屯田制
・九品中正
・門閥貴族
重要人物
・曹丕
・劉備
・孫権
ポイント
・赤壁の戦いのあと、曹丕の魏、劉備の蜀、孫権の呉が鼎立(ていりつ)した

この記事では、つぎの本を参考にしました。

中国の三国時代① ─ 魏・呉・蜀の鼎立

赤壁の戦い 跡

漢王朝が衰えたあと、各地の有力者が権力争いをくりひろげます。

そこから

・曹操(華北)
・孫権(江南)
・劉備(四川)

の3人が台頭します。

いわゆる三国志の時代で、天下三分の状態をかたちづくりました。

三つどもえのなかで、

曹操軍 vs 孫権&劉備の連合軍

の戦いがおこります。

これが有名な赤壁の戦いです。

戦いの結果、曹操は敗北し、

・魏(曹操)
・呉(孫権)
・蜀(劉備)

が並びたつ、三国鼎立の状態が確定します。

また敗れた曹操は、天下統一の目標をいったんあきらめ、魏の国力増強をはかります。

屯田制をはじめて、農民に土地をあたえ、経済の底上げをねらいます。それにより魏は、呉や蜀にくらべて大幅に国力を向上させます。

中国の三国時代② ─ 魏の形成と発展

魏皇帝 曹丕

曹操が亡くなったあと、むすこの曹丕(そうひ)が後漢を滅ぼし、正式に「魏」を建国します。

都は洛陽におきました。

曹操は後漢の権威を利用するため、みずからは「魏王」にとどまり皇帝にはならなかったが、曹操が亡くなると、むすこの曹丕が、後漢の献帝から禅譲をうけ、魏王朝を創設した。(p.110)

─ 『詳説 世界史研究』

統治制度を整えて「九品中正」とよばれる制度を始めます。これは、

中央から地方に中正官をおくり、そこで人材を9等に分けて審査し、有徳な者を王朝のトップに推薦する、という採用システム

のことです。

制度の実施により、地方の優秀な人材が中央に集まることが期待されました。しかしじっさいは、地方豪族の子供や弟子が推薦されたため門閥貴族化が、よりいっそうすすむだけでした。

なお、九品中正による登用システムの結果、

「上品に寒門なく、下品に勢族なし」

といわれるようになり、低い家柄(寒門)は上品とされず、有力な豪族が高級官僚を独占して、門閥貴族となっていきます。

いっぽう魏に対抗して、劉備が蜀をたて、都を成都におきます。

また、孫権も呉をたて、都を建業におきます。

しかし両国の経済力&軍事力は魏におよばず、けっきょくは蜀も呉も、魏によって滅ぼされます。

中国の三国時代③ ─ 日本とのつながり

卑弥呼

さいごに三国時代での日本とのつながりについてみていきましょう。

このころ邪馬台国の卑弥呼から魏に朝貢がなされています。それにたいして魏からは「親魏倭王」の称号をあたえます。

それにともない4世紀にはヤマト政権が日本統一をおしすすめ、5世紀には中国の南朝にふたたび朝貢しています。

おわりに

中国の三国時代をみてきました。

まとめると、こんなかんじです。

キーワード
・屯田制
・九品中正
・門閥貴族
重要人物
・曹丕
・劉備
・孫権
ポイント
・赤壁の戦いのあと、曹丕の魏、劉備の蜀、孫権の呉が鼎立(ていりつ)した

この記事が、中国の三国時代を理解するさいのヒントになれば、うれしいです。

では、また。