どうも、りきぞうです。
大学のころから、世界史に親しんできました。
大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。
・大事なキーワード&人物は?
・この時代のポイントは?
きょうは、この問いに答えていきます。
答えは、つぎのとおり。
・クリミア戦争
・パリ条約
・農奴解放令
・ナロードニキ運動
・ロシア=トルコ戦争
・パン=スラブ主義
・サンステファノ条約
・ベルリン会議
この記事では、つぎの本を参考にしました。
目次
東方問題とロシアの改革① ─ 南下政策

東方問題は、オスマン帝国の衰退を背景に、ロシアが南下政策をすすめたことでおこりました。
それにより3つの戦争が勃発しました。
- ギリシャ独立戦争
- エジプト=トルコ戦争
- クリミア戦争
です。
それぞれ、かんたんにみていきます。
ギリシャ独立戦争
ロシアが南下する以前、ギリシャはフランス革命の影響をうけて、オスマン帝国からの独立を果たしていました。
とはいえ統治は安定せず、国内も乱れていました。そのすきをついて、ロシアは領土拡大をねらい、軍を侵攻させます。
当時ロシアはバルト海だけでなく、地中海における海洋交易もねらっていました。そのためにまずは黒海周辺を手中におさめ、地中海進出の糸口をさぐっていました。
これによりギリシャ独立戦争が勃発します。
ある程度の近代化を果たしたロシアは、戦況を優位にすすめ、ギリシャにたいして勝利をおさめます。それによりロシアはねらいどおり、黒海北岸まで領土を拡大します。
以後ロシアは南下政策を継続し、地中海進出を模索することになります。
エジプト=トルコ戦争
ギリシャ独立戦争終結の2年後、今後は東地中海沿岸の覇権をめぐり、エジプトとトルコのあいだで争いが生じます。
2度にわたっておきたエジプト=トルコ戦争です。
黒海から地中海進出をねらうロシアは、オスマン帝国側をサポートし、みごとオスマンはエジプトに打ち勝ちます。
支援してくれた見返りに、オスマン帝国からロシアはダーダネルス&ボスフォラスの両海峡での独占航行権を獲得します。
これでまた南下政策が一歩すすんだかと思いきや、ここで待ったをかけたのがイギリスでした。
イギリスはロシアの地中海進出、さらには[紅海 → インド洋]にまで船を出すことを恐れ、独占航行権に反対し、ひとまず中立化させます。
強い海軍力をもつ英国にたいして、近代化を果たしたばかりロシアは何もいえず、イギリスの中立化要求をしぶしぶ受けいれます。
南下政策の失敗でした。
クリミア戦争
エジプト=トルコ戦争から約10年後、東方でふたたび戦争がおこります。
クリミア戦争です。
きっかけはギリシャ正教の保護を口実し、ロシアがオスマン帝国内に進出したことでした。
やはり不凍港しかないロシアにしてみれば、地中海に出れる港がどうしても欲しく、多少は無理をしてでも軍をおしすすめたかたちです。
しかしまたしてもロシアの海洋進出を警戒したイギリスが、フランスやサルディーニャの協力のもと介入します。
結果、ロシアはふたたび敗北をきっし、パリ条約では、
・黒海の中立化
・ドナウ川航行の自由化
を約束させられることになりました。ロシアにとっては、2度目の南下政策失敗です。
なお、ヨーロッパ全体からみても、クリミア戦争は意味のある戦争でした。
その理由は、つぎの6つです。
・ルーマニア独立を支援したナポレオン3世がフランスでの威信を高めた
・敗戦をきっかけに、ロシアではさらなる近代化改革がすすんだ
・戦争での対立をきっかけに、ロシアとオーストリアの関係が一気に冷え込んだ
・[ロシア vs オーストリア]の対立により、イタリア&ドイツ国内では統一の機運が高まった
・戦争中のナイチンゲールらによる救援活動が、国際赤十字の設立につながった
これだけあげても、クリミア戦争がいかに意味のある戦争だったか、わかります。
東方問題とロシアの改革② ─ 農奴解放令

クリミア戦争での敗北により、近代化の遅れを実感したロシア皇帝アレクサンドル2世は、国内改革に乗りだします。
そのひとつが農奴解放令でした。
「農奴」といった古い身分制が残っていることが、アレクサンドル2世にとって〝近代化のくびき〟なっている、と思われたわけです。
しかし彼の施策は裏目に出ます。
たしかに農奴たちは固定した身分制から解放されたものの、肝心の農地はお金を払えるミール(農村共同体)に分配されました。
その結果、ミールの規模はますます大きくなり、あろうことか各地の農村共同体は、解放されたはずの農奴をふたたび雇い入れ、酷使するようになります。
つまり、農奴解放以前に逆もどりしてしまったわけです。
さらにミールに所属できず、没落した農民たちが都市に流入してくるようになります。
かれらは賃金労働者となり、ロシアの資本主義の発展に貢献するものの、貧困層が増え、これがのちのロシア革命(=王朝滅亡)の温床になっていきます。
改革反動
アレクサンドル2世の近代化改革がすすまないなか、ロシア領だったポーランドで独立運動がおこります。
これをきっかけに寛容な近代化政策に危機感をいだいた支配層は、皇帝を中心とした専制政治を強化していきます。
いっぽう都市の知識人(インテリゲンチャ)たちは、「ヴ=ナロード(人民の中へ)」をとなえながらナロードニキ運動をおこし、農民の啓蒙をはかろうとします。
しかし、ふつうに働く農民の理解は得られず、〝上からの改革〟は失敗におわります。
さらに悪いことに、一部の暴徒化したインテリゲンチャたちがテロリズムに走り、過激グループがアレクサンドル2世を暗殺します。
皇帝暗殺をうけた支配層は、市民によりそった近代化政策は、王朝の衰退をまねくと判断し、さらなる専制強化をおしすすめます。
ロシア=トルコ戦争
アレクサンドル2世が暗殺されるまえ、オスマン帝国領のボスニア・ヘルツェゴビナで反乱でおこり、オスマンは鎮圧に乗りだします。
これをみたロシアは、ふたたび〝オスマンの海〟を奪うために、
・ギリシャ正教の保護
を口実に、オスマン帝国内に侵攻をはじめます。
無事に勝利を果たし、(エジプト=トルコ戦争やクリミア戦争とは異なり)イギリスからの介入をまぬがれたロシアはサン=ステファノ条約をむすび、
・ブルガリアへの自治権の付与
の約束をとりつけます。
しかし、東欧での勢力拡大に満足していたロシアですが、思わぬ敵があらわれます。
隣国のプロセイン首相ビスマルクです。
東ヨーロッパの秩序が乱れることを心配したビスマルクは、ステファノ条約を破棄し、ベルリン会議を開いたうえで、あらたにベルリン条約を締結させます。
自分たちの国以上に近代化をすすめたプロセインや、その裏で支援するオーストリア&イギリスの軍事力をおそれたロシアは、ビスマルクの提案を受け入れるしかありませんでした。
結果、ベルリン条約では、つぎのような条項が決められました。
→ キプロス島の占領&行政権の行使
オーストリア
→ ボスニア・ヘルツェゴビナの占領&行政権の行使
ルーマニア&セルビア&モンテネグロ
→ 独立承認の継続
ブルガリア
→ オスマン帝国領での自治国化
みたとおり、サン=ステファノ条約で決まったロシアの東欧覇権は、すっかり骨抜きにされました。
ロシアにとっては、3度目の南下政策失敗でした。
おわりに
東方問題とロシアの改革をみてきました。
まとめると、こんなかんじです。
・クリミア戦争
・パリ条約
・農奴解放令
・ナロードニキ運動
・ロシア=トルコ戦争
・パン=スラブ主義
・サンステファノ条約
・ベルリン会議
この記事が、東方問題とロシアの改革を理解するさいのヒントになれば、うれしいです。
では、また。




