パレスチナ問題 ─ 原因・イギリス・現在・世界史・中東戦争・石油危機【わかりやすく解説】

どうも、りきぞうです。

大学のころから、世界史に親しんできました。

大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。

・パレスチナ問題について知りたい
・大事なキーワードは?
・この時代のポイントは?

きょうは、この問いに答えていきます。

答えは、つぎのとおり。

キーワード
・アラブ連盟
・イスラエル
・中東戦争
・スエズ運河国有化
・アラブ石油輸出国機構
・石油危機(オイルショック)
・エジプト=イスラエル平和条約
・パレスチナ解放機構
・パレスチナ暫定自治協定
ポイント
・第四次中東戦争でアラブ石油輸出国機構(OAPEC)が石油戦略をとり、世界規模でオイルショックが発生した

この記事では、つぎの本を参考にしました。

パレスチナ問題は、パレスチナの領土をめぐる[ユダヤ人 vs アラブ人]の対立です。

以下、[背景 → 展開 → 進展]の流れで、そのようすをみていきましょう。

パレスチナ問題① ─ 背景

シオニスト運動の指導者 ハイム・ヴァイツマン(イスラエル初代大統領)

パレスチナ問題の大もとは、ヨーロッパにおけるユダヤ人への差別です。

中世から近代にかけて、ユダヤ人はさまざまな国々で迫害や弾圧をうけてきました。

そんななか19世紀末に国民国家形成にともなうナショナリズム運動がおこり、ユダヤ人もまた民族の自覚にめざめます。

かれらの一部がアメリカにわたり、シオニズムという運動を展開し、パレスチナにユダヤ人国家の建設を求めるようになります。

そんなシオニストたちの運動にたいして、世界の覇権をにぎっていたイギリスが手をさしのべます。

イギリスのねらいは、ユダヤ人グループがもつ豊富な資金力でした。資本の援助をうけるかわりにイギリスは、パレスチナを委任統治してユダヤ人たちを住まわせることにします。

いっぽうでイギリスは現地のアラブ人たちにもパレスチナで暮らせることを約束します。いわゆる「二枚舌外交」で、これによりユダヤ人のパレスチナへの入植者が増加し、アラブ人たちと摩擦をおこしていくようになります。

さらにナチス=ドイツでホロコースト(ユダヤ人虐殺)が横行すると、その難を逃れるためにパレスチナへの流入が加速します。

これがさらなる争いをうむことになります。

パレスチナ問題② ─ 展開

スエズ運河を渡るエジプト軍

第二次大戦が終わると、両者の対立はより鮮明になっていきました。

戦後から1973年にかけて、計4回の大規模な戦争が勃発します。まとめると、こうなります。

  • 第一次中東戦争(パレスチナ戦争)
  • 第二次中東戦争(スエズ戦争)
  • 第三次中東戦争(6日間戦争)
  • 第四次中東戦争(十月戦争)

以下、それぞれかんたんにみていきます。

第一次中東戦争

第一次中東戦争(1948年〜1949年)は、国連によるパレスチナ分割案がきっかけとなって勃発します。

ユダヤ人とアラブ人の共存をはかるため、国連はパレスチナの分割を提案するものの、これにたいしてアラブ側のアラブ連盟は受け入れを拒否します。

いっぽうでイギリス軍が撤退したのち、今度はユダヤ人側が早々に自分たちの国でイスラエルを建国します。

さらには領土を奪還するためアラブ連盟に戦争をしかけます。

ここに第一次中東戦争が勃発します。

その結果、イスラエルの領土は拡大するいっぽう、パレスチナには難民が大量に発生します。

この戦争でのアラブ人の敗北は、隣国のエジプトに衝撃をあたえました。エジプト国内では窮地に立たされた同じアラブ人にたいして何ら支援をおこなわかった王朝政府に不満の声があがります。

反抗は日ましに高まり、ついにはクーデターにまで発展します。

結果、自由将校団のナセルらにより王朝転覆が成功し、以後エジプトでは共和制がしかれることになります(エジプト革命)。

第二次中東戦争

第二次中東戦争は、エジプト大統領に就任したナセルによるアラブ民族主義の提唱を背景しておこります。

エジプト政府は外国企業にとられていたスエズ運河を買い戻そうと、アスワン=ハイダムから融資をうけることにします。

しかしそれにたいしてアメリカが〝横やり〟を入れたため、エジプトは止むなくスエズ運河の国有化宣言します。

これを認めないイギリスとフランスは所有権の侵害を口実に軍事侵攻をはじめます。そのときに協力をもとめたのがイスラエルでした。

けれどこの強行策は同盟を組むアメリカからも非難をうけ、国連もまた即時停戦を要求します。

その結果3カ国は、エジプトからの撤退を決めます。いっぽう、本国に利益をもたらしたナセルはたくさんの支持者をあつめ、その権勢をつよめていきます。

勢いにのった彼はアラブ連合共和国を結成し、以後アラブ人たちの中枢組織になっていきます。

第三次中東戦争

第三次中東戦争(1967年)は、ナセル政権によるアカバ湾封鎖とイスラエル攻撃をきっかけにしておこります。

勢いにのるエジプト政府は、そのまま、

・シナイ半島
・ゴラン高原
・ヨルダン川西岸
・ガザ地区

を占領します。

これにたいして他国からの協力はうけたイスラエルも必死の抵抗をくりかえします。

それにより軍事力が尽きたエジプトのすきをついて奪われた領土をつぎつぎ取りもどしていきます。

戦争それ自体はイスラエルの圧勝におわり、ナセル政権の権威は地におちます。いっぽうで、アラブ側は、みずからの利権をまもるためにアラブ石油輸出国機構(OAPAC)を結成します。

それまでアラブ陣営をみちびいてきたナセルは急死し、代わってサダトがエジプト大統領に就任しました。

第四次中東戦争

第四次中東戦争は、エジプト&シリアが先制攻撃をしかけたことで勃発します。

これにたいして OAPEC が石油戦略をとり、これにより第一次石油危機(オイルショック)が発生します。

資本主義国における石油資源不足を心配したカーター大統領は、アメリカのキャンプ=デービッドで、アラブ共和国とイスラエル仲介をおこないます。

この場でキャンプ=デービッド合意がなされたのち、翌年にエジプト=イスラエル平和条約が締結されます。これによりシナイ半島がエジプトにシナイ半島が返還されます。

いっぽうでこの合意に不満をもつアラブ人&ユダヤ人から標的にされたサアドは標的にされ、暗殺されてしまいます。

パレスチナ問題③ ─ 進展

パレスチナ暫定自治協定

その後のパレスチナは、パレスチナ解放機構が結成されたのち、アラファト議長が主導となって武装闘争がくりかえされます。

また民衆のあいだでは「インティファーダ」とよばれる投石による抵抗が、長くつづいていきます。

冷戦が終結したあとでは、アメリカのクリントン大統領が仲介役となって、

・イスラエル(ラビン首相)
・PLO(アラファト議長)

のあいだでパレスチナ暫定自治協定が調印されます。

これにより両国の相互承認とパレスチナ人の自治獲得が合意されました。

しかしその後も対立はつづき、協定に調印したラビン首相は暗殺され、パレスチナ解放機構のアラファト議長も亡くなります。

おわりに

パレスチナ問題をみてきました。

まとめると、こんなかんじです。

キーワード
・アラブ連盟
・イスラエル
・中東戦争
・スエズ運河国有化
・アラブ石油輸出国機構
・石油危機(オイルショック)
・エジプト=イスラエル平和条約
・パレスチナ解放機構
・パレスチナ暫定自治協定
ポイント
・第四次中東戦争でアラブ石油輸出国機構(OAPEC)が石油戦略をとり、世界規模でオイルショックが発生した

この記事が、パレスチナ問題を理解するさいのヒントになれば、うれしいです。

では、また。