【世界史】古代ギリシャの歴史&年表 ─ 簡単に説明

どうも、りきぞうです。

大学のころから、世界史に親しんできました。

大学院時代は、本格的に人文書・歴史書にあたってきました。

・古代ギリシャの歴史を、ざっくり知りたい
・大事なキーワードは?
・重要な人物は、だれ?

きょうは、この問いに答えていきます。

答えは、つぎのとおり。

流れ
① ポリスの形成
② ペルシャ戦争
③ ペロポネソス戦争
④ マケドニアによる統治
キーワード
・ドラゴン法
・陶片追放
・デロス同盟
・デマゴーグ
・カイロネイアの戦い
・コリントス同盟
重要人物
・ソロン
・ペイシストラトス
・クレイステネス
・ペリクレス
・フィリッポス2世

….

この記事では、つぎの本を参考にしました。

また、さいごに、「なぜ、都市国家・アテネは衰退したのか?」も、考えてみます。

以下、目次に沿って、みていきます。

ギリシャの歴史① ─ 民主政の発展

アクロポリス

ギリシャの各地に、ポリス(都市国家)が形成されます。(BC.800年頃〜)

代表的なポリスは、

・アテネ
・スパルタ

です。

それぞれポリスは独立した国家でした。

そのため、全体を統治する機関はありませんでした。

ひとつひとつポリスは、城壁でかこまれ、内側は、住民が暮らす町と、集会をおこなう広場(=アクロポリス)で構成されていました。

いっぽう、ギリシャ人共通の

・言語
・神話
・祭典

は、存在していました。

そのため、「同一民族」の意識は保たれていました。

「ドラゴン法」の成立

ポリスは、王政 or 貴族政により、統治されていました。

いっぽう、貿易・交易によって、平民階層は豊かになり、自分たちでポリスを守るようになります。

すると、貴族たちに「参政権」を求めるようになります。

とくにアテネでは、この流れが顕著でした。

「ドラゴン法」が成立すると、市民が政治に参加する民主政が、じょじょに発展していきました。

ソロンによる改革

政治家「ソロン」が生きたアテネでは、ちょうど「王政」から「貴族政」に移行していた時期でした。

しかし、少人数の貴族が支配する状況にたいして、参政権のない市民(=平民)が不満をいだいていました。

いっぽう、

・市場経済の発展
・貨幣の普及

により、格差が拡大 ─ 。

カラダを担保にいれてまで借金をし、奴隷の身に落とす平民まであらわれました。

貴族/平民の格差は拡大し、対立は激しくなっていきます。

このような状況で、ソロンは、民主政にむけた改革をおこないます。

借金の負担を減らす政策を、つぎつぎ実行していきました。

具体的には、以下のとおり。

・借財の帳消し
・債務奴隷の禁止
・財産に応じた権利と義務
・民衆裁判の設置

これらの政策により、貴族/平民の格差は解消 ─ 。

民主政が、より進んでいくことになります。

ペイシストラトスによる僭主政

ソロンによって、平民の権利は保護されるようになっていきました。

そのいっぽう、かれらの支持を逆手にとり、権力をにぎる政治家があらわれます。

それが「ペイシストラトス」です。

民衆をダマすかたちで、アクロポリスを占拠し、実権をにぎりました。

ペイシストラトスの登場で、アテネの「民主政」は、いったん停滞することになります。

クレイステネスによる「陶片追放」

ペイシストラトスによって「僭主政」がすすむいっぽうで、ふたたび、貴族&富裕層にたいして、平民の非難が高まっていきます。

くわえて、ひとりの政治家が、権力をにぎり、暴政をおこなうことへの警戒感も、貴族のあいだで高まっていきます。

その状況をうけて、政治家「クレイステネス」が、「陶片追放」を採用します。

これは、

僭主の出現を予防するため、〝僭主になりそうな人物〟を、投票によって国外追放できる

という制度です。

このしくみにより、あらかじめ「独裁者」「僭主政治家」を抑止できて、民衆の権利確保につながります。

いっぽう、「陶片追放」は〝政治争いの道具〟につかわれ、民衆の権利をまもるというより、政敵を追い込むための手段になっていきます。
出典:『一度読んだら絶対に忘れない世界史の教科書』

ギリシャの歴史② ─ ペルシャ戦争

ペルシャ兵士(出典:wiki

BC.500年〜BC.449年にわたり、

アケメネス朝ペルシャ/ギリシア・ポリス連合軍

のあいだで、争いがおこります。

これが「ペルシャ戦争」です。

「デロス同盟」の締結

強大な敵をまえに、それぞれのポリスは協力を結びました。

この協定を「デロス同盟」とよびます。

計4回の対戦がおこなわれ、すべて「ギリシア・ポリス連合軍」が勝利をおさめました。

第1回:ペルシャ軍の撤退 → 勝利(BC.492年)
第2回:マラトンの戦い → 勝利(BC.490年)
第3回:サラミスの海戦 → 勝利(BC.480年)
第4回:ミュカレの海戦 → 勝利(BC.479年)

このあとも「小さな争い」はありました。

しかし最終的には、両者のあいだで講和が成立し、「ペルシア戦争」は終わりました。(BC.449年)

戦争の影響 ─ アテネの発展

統治のしくみからみると、この戦争は、

王政/民主政

の対立でした。

そして、勝利をおさめた「ギリシャ連合軍」は、より「民主政」を加速させていきます。

なかでも、ギリシャ側の盟主だった「アテネ」は、政治制度を発展させ、経済面でも豊かになります。

いっぽう、同盟国からあつめる資金を〝むさぼる〟アテネにたいして、スパルタは不満をつのらせます。

この〝うっぷん〟が、つぎの「ペロポネソス戦争」につながります。

古代ギリシャの歴史③ ─ ペロポネソス戦争

ポティダイアの戦い(出典:wiki

「デロス同盟」をキッカケに、ギリシャ地域のトップになったアテネ ─ 。

けれど資金をめぐり、各ポリスにたいして対立を深めていきます。

スパルタとの〝まさつ〟は顕著で、戦争にまで発展します。

スパルタ/アテネの争いを、「ペロポネソス戦争」とよびます。

戦争の展開 ─ ペリクレスの誤算

主な戦いは、つぎの2つです。

・十年戦争
・第二次戦争

なかでも重要なのは、「十年戦争」です。

この戦いで、民主政を完成させた「ペリクレス」は、スパルタを迎えうちました。

知将でもあるかれは、スパルタの攻撃にたいして「籠城作戦」をとります。

アテネ市民を二重城壁のなかへ避難させ、いっぽうで、海上からスパルタを攻撃する作戦に出ます。

1年目はうまくいきましたが、2年目にハプニングが起こります。

エーゲ海・東部で流行る「疫病」が、アテネでもひろまり、住民たちが感染します。

タイミングがわるいことに、籠城のため、密集して暮らしているため、一気に蔓延します。

2年目の終わりには、アテネ市民の 1/3〜1/6 が亡くなったとされます。

これにより、アテネは後退 ─ 。

その後も、シチリア島の占領・覇権をにぎり、スパルタと戦いをつづけますが、成果をあげることができません。

戦争の影響 ─ デマゴーグの登場

戦争中、アテネは「民主政」をとっていました。

ペルシャ戦争に勝利したこともあり、民主政に自信をもっていましたが、デメリットが明らかになります。

「デマゴーゴス」の登場です。

弁論に長けた政治家が、民衆をそそのかし、スパルタとの戦争を〝あおり〟ます。

結果、「衆愚政治」におちいり、民主政といっしょに、アテネも衰退します。

古代ギリシャの歴史④ ─ マケドニアによる統治

カイロネイアの戦い(出典:wiki

BC.431〜404年にわたってつづき、いったんは、スパルタの勝利で終わりました。

しかし、戦争の長期化で、どちらのポリスも〝ボロボロ〟になります。

結果、ギリシャ全体が衰退していくようになります。

ポリスが衰えるなか、勢力をのばしたのが、北方の「マケドニア」でした。

「カイロネイアの戦い」での敗北

国王「フィリッポス2世」のもと、「王政」を採用していました。

BC.338年、「カイロネイアの戦い」で、アテネ&テーベ連合軍にたいして勝利をおさめます。

「コリントス同盟」の締結

翌年、BC.337年に、(スパルタをのぞく)すべてのポリスと「コリントス同盟」をむすびます。

これによって、ギリシャ地域におけるマケドニアの統治が成立します。

アレクサンドロスによる支配

その後、「フィリッポス2世」のあとを継いだのが、むすこの「アレクサンドロス」です。

野心家のアレクサンドロスは、ギリシャ地域だけでなく、東方地域にも目をむけます。

[小アジア → シリア → エジプト]に進出し、つぎつぎに国をおさめていきます。

さいごは、ギリシャのライバルだった「ペルシア帝国」を滅ぼし、「ギリシア〜インド西方」にまたがる帝国を建設しました。

これによって、帝国による統治が決定的となります。

ポリス(都市国家)による統治は、ほぼ消滅することになりました。

問い ─ なぜ、ポリスは衰退したのか?

なぜ、ポリス(都市国家)は衰退したのか?

要因は2つある、とされています。

  • デマゴーグによる衆愚政治
  • マケドニアによる圧力

です。

それぞれ、みてきます。

要因① ─ デマゴーグによる衆愚政治

衆愚政治による「ポリスの衰退」は、教科書でも、よく言われています。

スパルタと「ペロポネソス戦争」をスタートさせたアテネですが、じょじょに劣勢にまわります。

本来なら〝手を引く〟ところですが、弁の立つ政治家にうながされた民衆が、戦争の続行をあと押しします。

結果、アテネは衰え、民主政も崩壊していきます。

いっぽうで、「衆愚政治は要因ではない」という説もあります。

たとえば、橋場弦『民主主義の源流』では、「ペロポネソス戦争」のあとも、民主政の修復・修正は、何度もおこなわれたと指摘します。

つまり、「衆愚政治」による内部崩壊が原因ではない、というわけです。

要因② ─ マケドニアによる圧力

もうひとつの要因は、「マケドニアによる圧力」です。

「フィリッポス2世」による侵略が、アテネ衰退を促した、とする考えです。

〔……〕民主政崩壊の直接にして最大の要因が、マケドニアの軍事的制圧による、ポリスの独立喪失であることもまた否定しがたい。市民みずからの自由意志で政治を行なう原則が否定されれば、もはや民主主義の生命が枯死したも同然だからである。(p.85)

─ 橋場弦『民主主義の源流』

じつは、研究者のあいだでも、崩壊した要因については意見がわかれています。

そのため、ポリス衰退の要因を考えるには、2つの説をアタマにいれておくのが、たいせつです。

まとめ

流れ
① ポリスの形成
② ペルシャ戦争
③ ペロポネソス戦争
④ マケドニアによる統治
キーワード
・ドラゴン法
・陶片追放
・デロス同盟
・デマゴーグ
・カイロネイアの戦い
・コリントス同盟
重要人物
・ソロン
・ペイシストラトス
・クレイステネス
・ペリクレス
・フィリッポス2世

この記事が、「古代ギリシャの歴史を知りたい人」の参考になれば、うれしいです。

ではまた〜。